朽ちない財産
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 1章3節~5節
3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章3節~5節
旧約聖書:詩編103:1-6
Iペトロ1:3-5
I.神への賛美
さて、数週間前、私達は、ペトロの手紙の挨拶部分について、御言葉に聞きました。私達は、欠けだらけのペトロを形作って下さった神様の愛、永遠の初めから選ばれていたのだから、安心して歩むことができる、そして、クリスチャンは、神の恵みと平和を祈る、人々の祝福を祈るものである、この三つについて、御言葉に聞きました。
今日はその続きです。テーマは、「永遠の財産」です。さて、ペトロは、先週の挨拶に続きまして、
まず、神をほめたたえております。これは、パウロが、エフェソ信徒への手紙などで、神を賛美しているのと全く同じです。更にパウロの手紙もそうですが、ペトロの手紙の特徴の一つは、感謝と賛美でありましょう。
なぜ、この時代に手紙が書かれていったのかといえば、それは問題解決のためです。
しかし、これは、ペトロにも、パウロにも、共通しているのですが、彼らは、手紙の挨拶が終わると、すぐにその問題そのものについて、取り上げることは致しません。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(ver3)、
まず、神を賛美しているのです。この世界には様々な法則があります。しかしそれは、信仰生活の中にもあります。その法則を無視して、神からの祝福を受けることはできません。
それは、何でしょうか。それは、まず、神を賛美することです。神をほめたたえることです。そして、次に、神の御命令に聞くこと。すなわち、御言葉に聞くことです。
まず、神を賛美すること、それが、クリスチャンライフの第一歩であり、基礎であるということができます。人は神を知り崇める者、神を賛美するものとして創造されました。ですから、賛美を抜きにして、信仰はわからないし、賛美のない人生は空しいものであるし、神を知り、神を喜び、神をほめたたえる事こそが、人間本来の姿なのです。
どんなに着飾って、外面を装っても、もし私達が神への賛美を忘れてしまったら、それは、野獣より悲惨であるというのが、カルヴァンが書いたュネーブ信仰問答のメッセージなのです(問1-4)。
私達の課題、私達の問題は、まず、神に心を向けなければ、解決をすることはできません。ですから、神を賛美する。これはクリスチャンライフにとって、大きな祝福の秘訣なのです。
しかも、ここでペトロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」(ver3)。と言っています。
私達は、神というと、何か漠然とした神を思ってしまうのです。更に日本では、八百万の神々なのです。沖縄には、沖縄の神がおり、台所には、台所の神がおり、野球には野球、サッカーには、サッカーの神がいる訳です。
しかし、私達の賛美する神は、そのような漠然とした神ではありません。主イエス・キリストの父なる神様ですから、いつも、傍近くにいて下さる神であり、私達を、救うために、キリストをこの世界に遣わして下さり、私達一人一人に、愛のまなざしを注いで下さるお方であり、それは、主イエス・キリストの父なる神であるばかりではなく、私達一人一人の神、私達の天の父なる神とお呼びすることができるお方なのです。
私達は、何か問題があると、すぐに、自分で何とかしようとして、人に相談したり、問題解決を人に求めたりすることがあります。しかし、何よりも大切なことは、神を賛美すること。神に解決を求めていくことなのです。私達は、今日第一番目に、神を賛美しているでしょうか。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる」(詩編103:1-6)。
良い時も、悪い時も主を賛美する。主は最善以下のことを為さらない。そのことを信じて、まず主を賛美する、そのような歩みをさせて頂きたいと思います。
II.ボーン・アゲイン
さて、次に、ペトロは、神が何をしてくださったのか、その事について語ります。
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(ver3)、
ここで、ペトロは、新生、新しい誕生、新しい命を神が与えて下さったということを語ります。
新生、ボーン・アゲイン、新しく生まれる。ニコデモも、イエスとの会話の中で、
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることが
できるでしょうか。」イエスは言われます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(ver3-7)。
人が新しく生まれるということには、三つの側面があります。それは第一に、神の豊かな憐れみによるということです。
私達に新しい命が与えられたのは、それに相応しいからではありません。
唯々神の憐れみです。神の憐れみこそが、新生の基盤です。人は残念ながら、生まれながらにして、神に背を向けている存在なのです。そして、神が与えて下さった、霊的な命を失ってしまっていました。神を愛する事が出来なくなってしまったばかりか、お互いを愛する事が出来なくなってしまっている。
鮭は逆流を産卵のために力強くのぼっていくわけですが、私達は、残念ながら罪の力に負けて、押し流されてしまう存在でした。罪に支配され、悪魔に支配されているような存在でした。しかも、もっと悲惨なことは、それがいけないことだとわかっていなかったということです。
しかし、神様の一方的な憐れみによって、私達は新しく生まれることによって、その罪に打ち勝つ力を与えられたのです。人は自分の力で新しく生まれ変わる事が出来ません。ただ、神の憐れみによって、私達は新しい命が与えられていくのです。第二に、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」(ver3)、とございますように、新生の方法は、主イエス・キリストの復活です。
イエスは、十字架で死なれました。しかし、三日目に甦られました。それで、私達が新しく生まれることが可能になったのです。
それはなぜかと言えば、私達が、救われるということは、霊的に、キリストの一つにされていることを意味しているのです。私達が、救い主として、キリストを受け入れるときに、私達もまた古い自分に死に、キリストと共に新しい自分に甦るのです(ローマ6:3-8)。
キリストが死者の中から甦られた、その命が私達一人一人に与えられているのです。
そして、新生の結果、「生き生きとした希望」を私達は、与えられていくのです。これは、終わりの日の甦りの希望です。イエスが復活されただから、私達もまた、イエスを信じるときに、新しい体に甦ることができる。
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる」(イザヤ54:10)。
イエスが死から甦られたことによって、私達もまた、罪に打ち勝ち、死に打ち勝つ、永遠の命の希望が与えられていくのです。
III.朽ちない財産
「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ver4-5)。
では、ここで言われております、財産とはどのようなものなのでしょうか。三つの特徴があるのです。
第一に、これは、朽ちず、汚れず、しぼまない財産です。決して、失われない財産です。私達は、どんなに財産を集めても、それを御国までもっていくことはできません。人は結局、裸で生まれ、裸で天に帰らなければならいなのです。どんなに巨万の富を得ても大きな家に住んでも私達は、それを天国迄持っていくことはできないのです。この世界で私達が獲得していくものは、朽ちていくもの、消えていくものであって、永遠のものではありません。
しかし、だからと言って、聖書はこの世界に生きることは、空しいことだとは言っていません。寧ろ、クリスチャンとして、神が与えて下さったこの世界という舞台を神と共に精一杯生きていくのです。
勿論、そこには弱さや足りなさや、痛み悩むこともあるのだけれども、それでも、私達は、天国というゴールを知っているのですから、永遠の命が与えられているのですから、この世界をゴールである天国に向けて、雄々しく歩んでいくのです。神が私達に備えて下さっているもの、それは、失われていくようなものではありません。朽ちず、汚れず、しぼまない財産です。そして、それは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける。と言われているように、永遠の財産、永遠の命なのです。それを受け継ぐものと神はしてくださったのです。
第二に、それは、あなた方のために天に蓄えられているのです。この、「蓄えられている」というのは、「完了形」です。これから、神が蓄えて下さっているのではないのです。神が既に蓄えて下さっているのです。
昔子供たちのために貯金通帳をつくりました。しかし、子供たちは小さかったころ、そんな口座がある事すら知りませんでした。本人は知らなくても、既に蓄えはなされていたのです。
私達の天上の資産も同じです。天の父は、これから、通帳を用意されるのではなくて、通帳は既に用意されています。既に蓄えられているのです。しかも天国銀行ですから、決して倒産しません。しかも、その配当は、その利子は、罪と死から解放された永遠の命です。
そして、最後に、私達に与えられている永遠の財産は、終わりの時になって初めて受け取ることができるものではなくて、イエスを信じた時に、既に、今、今日、ここから得ることができるものなのです。
終わりの時ばかりではありません。しかも、神は、この世界においても、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ver5)。神は、この世界においても、私達一人一人を守って下さるのです。
「守られています」これは、「フルーレオマイ」と言いますが、軍隊用語です。護衛部隊のことを言っているのです。神様の確かなガードを表しているのです。
神は、私たちの信仰を守って下さるのです。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています(フィリピ1:6)。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます(Iコリント1:8)。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(IIコリント4:8-9)。
神の望みは本当に素晴らしいと思います。それは天に蓄えられている、相続財産、永遠の財産です。
私たちの老後は一体いくら必要なのでしょうか。2000万とも4000万ともいわれています。確かに老後の備えは幾つになっても大切です。
昔、百歳近くで大ブレイクした、金さん銀さんが、多くのお金が入ってきたときに、レポーターが聞きました。「金さん、銀さん、このお金を何に使いますか?」そうしたら、彼女達は言われました。「老後のために貯蓄しておきます」。確かに老後の蓄えは大切でしょう。
だとすれば、永遠の備えはもっと大切です。イエスを信じる信仰によって、永遠の保証が与えられているということは、どんなにか素晴らしいことでしょうか。
どうか、神の憐れみによって、一方的に与えられた、永遠の財産、永遠の命を自分のものとして歩む者でありたいと思います。
十九世紀初期の米国の偉大な伝道者ムーディ(1837ー99)はいった。
「いつかあなたはD・L・ムーディが死んだという新聞記事を見るでしょう。
あなたはそのことばを一語も信じないようにしてください。
そのとき私は、現在以上に生きているのです。
私はさらに高くあがっているのです。
これがすべてです。
この古い土の住み家から、不朽の家へ、死も触れることができず、罪も汚すことができない体へ、イエスの栄光の体に似たからだへ移っているのです」
