神の愛の語りかけ
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 1章14節
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 1章14節
「神の愛の語りかけ」
旧約聖書:詩編22:10-11
ヨハネ1:14
I.神の愛の語りかけ
クリスマスおめでとうございます。今日のメッセージは、正にクリスマスの出来事です。クリスマスメッセージです。イエスの受肉。神が人となって、この地上に来られた。キリスト教の神秘中の神秘です。
この時代、このヨハネによる福音書が書かれました頃には、もうイエスが天に帰られ、70年近くの時が過ぎ、ヨハネを除いた12弟子は、皆亡くなり、彼の周りにも、多くのギリシャ人、異邦人がいるようになっていました。
ですから、ヨハネは、そのような人々を意識して、この福音書を書きました。ユダヤ人は、「しるしを」求め、ギリシャ人は、「知恵」を探す(Iコリント1:22)。と言われていますが、知恵を重んじる、ギリシャ人には、イエスを紹介するときに、イエスの事を「ことば」と書いた方が、理解しやすかったのです。
さて、イエスご自身は、神が、肉をまとわれて、生まれてきた御方なのだ。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。そのことは、例えば、使徒パウロも、ずっと前から語っていた事でした。
ですから、神の一人子なる、イエスが人となって、生まれてきた。そのこと自体は、真新しいメッセージではなかったのです。
しかし、このヨハネの新しい視点は、神が人となられた以上に、それを、「ことば」が「人」となったと言い換えたところでした。
人となられた神。これはよくある事です。例えば、昭和天皇は、御自身を現人神、人となった神だと言いました。しかし、戦争に敗れた時に、人間宣言をしました。戦後すぐに、人々が飢えていた時、何万もの人々が御所に、人となったのだから、御所にある食べ物を差し出せとプラカードをもって、押しかけました。
BC二世紀のスリヤの王アンテオコス4世は、自分の事を、「セオス・エピファネス=人となった神」と言いました。所が、その余りにも傍若無人な政治の故に、「セオス・エピマネス=狂人となった神」と言ったのです。
しかし、ヨハネは、人となられた神、イエスを、「ことば」と言いました。「ことば」とは、色々と理解することができます。神の被造物の中でも、人間のみに与えられた、能力、それが「ことば」です。
「ことば」は人間に与えられた、最強の、そして最高のコミュニケーションの手段です。人は、芸術、文化、科学、文学、哲学と言った、全ての学問的領域を、この「ことば」で表現します。
ですから、イエスを、「ことば」という場合、それは、あらゆる、文化、あらゆる学問、あらゆる芸術、あらゆる哲学、それらをコミュニケートして、余りがある。イエスこそが、真理をコミュニケートする、御方その者なのだと聖書は語るのです。
しかし、大切なことは、この、「ことば」を聖書以外の様々な、「ことば」から理解してはならないということです。この世界には、正に「言葉」が溢れています。テレビを見れば、芸人の語る言葉が、文字となって踊っています。SNS上には、勿論有意義な言葉もありますが、あまり意味のない、ことばも又溢れているのです。そして、人々は、何かを調べるときに、まず、そのSNSの言葉にアクセスするのです。
しかし、私たちは、まず聖書の「ことば」からアクセスするのです。聖書の「ことば」から理解するのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
「ことば」は、肉となって、即ち、人となって、私達の間に、宿られた。これは「ことば」が、人格的な存在であることを、表しています。
この、「ことば」なるお方が、クリスマスに人となって、この地上にお生まれになられた、主イエス・キリストご自身なのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ver14)。
ヨハネは、「ことば」という御言葉で、マタイが語り、ルカが記した、あのベツレヘムの夜の出来事、神の御子イエスが貧しい姿を取られて飼い葉桶にお生まれになられた。あのクリスマスの出来事を表したのです。
クリスマスは、神の私達に対する、愛の語り掛けです。「ことば」とは、何でしょうか。「ことば」とは、突き詰めると、私達に対する、神の愛と温もりの語り掛けです。
私は、あなたを心から愛している、神の「ことば」が肉をとって、この地上に来てくださった、そして、神の愛を見せて下さった。それが、「ことば」なる神である、イエスであり、クリスマスの出来事です。
神の愛は、さわる事が出来ません。神の愛はふれることができないのです。そして、神の愛は目で見ることもできない。神の愛は、直接に聴くことができない。
だから、イエスが人となってこの地上に来て下さって、その言葉を通して、様々な奇跡を通して、神の愛を直接に見せて下さった。神の愛の表れである、イエスに触る事が出来るようにして下さった。神の愛をこの目で見て確かめることができるようにして下さった。そして、この耳で聞くことができるようにして下さった。
私の目にあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛していると、語りかけて下さる神がおられます。そして、そのことばこそが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ver14)。イエス・キリストに他ならないのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ver14)。
人は、イエスのこの語り掛けを聞くときに、安心することができます。そして、この語り掛けを聞くときに、生きる意味を見出し、平安に生きることができるのです。
神はあなたに、語り掛けておられます。何を、神の愛を語り掛けておられるのです。
あなたは、今この神の愛の語りかけを聞いておられるでしょうか。あのアウグスティヌスも、この神の愛の語りかけを聞きました。
そして、彼は、神の愛の語りかけによって、得た平安について、その著書『告白』で次のように言っているのです。「神様あなたは私達を、ご自分に向けてお造りになりました。ですから私達の心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」
「あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の体内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10-11)。
こうして、アウグスティヌスは、神の愛の語りかけによって、平安を得たのです。
どうぞあなたも、この神の愛の語りかけを聞いていただきたいと思うのです。そして、本当の平安を見出して頂きたいと思います。
II.痛みを理解して下さる神
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ver14)。
聖書が語る神、それは、クリスマスの日に、神が人となられたということです。
そして、それは、神が、赤ちゃんとなって生まれて来て下さったという事です。神が、他の人によって、赤ちゃんとなって、誰かに養われなければ生きいくことができない、人となられたということなのです。
「ことば」であるイエスは、罪人を救うために、正に、「受肉」人となって下さったのです。イエスは、罪という一点を除いて、私達と全く同じ、人間となられました。イエスは、処女降誕という奇跡的な誕生ではありましたが、一人の女性からお生まれになられました。
私達と同じように、その知恵と、体の成長に於いて、赤ちゃんから少年、そして、生年、大人へと成長されました(ルカ2:52)。
私達と同じように、空腹を覚えられ、喉の渇きを体験され、食事をされ、飲み、そして、眠り、疲労を覚え、お眠りになられ、苦痛を味わい、涙を流し、喜び、驚嘆し、怒り、憐みに心を動かされ、様々な御業を為さいました。
更には、人となられた、「ことば」であるイエスは、神に私達と同じように、祈ることを為され、聖書をお読みになられ、試みにも遭われ、御自分の人としての意思を、父なる神のみ旨に服することをされ、最後には、勿論これが私達との決定的な違いで、死から甦られましたが、その前に十字架で血を流され、苦しまれ、死を経験されたのです。
これら一切の事柄の瞬間、瞬間に於いて、私達と全く同じ人間となられたのです。当時人々は、救われたければ、律法を行いなさいと教えられていました。
しかし、イエスのうちには、恵みと真が満ちていた。ある日、イエスは言われるのです。「あなたは私を誰だと思うか」。一番弟子であった、ペトロが答えます。
「あなたはメシア生ける神の子です」と告白しました。するイエスが言うのです。
「わたしはこれから、エルサレムに行って、十字架で死ぬのだ」と。するとペトロはびっくりして、「先生そんなはずはありません。神の子キリストが死ぬはずがありません。」というと、今度は、「サタン退け」と激しく叱責されるのです。この時弟子達は、イエスの言葉の意味が分かりませんでした。
しかし、やがて、このペトロにも、そして、この福音書の著者ヨハネにも分かるときが来るのです。十字架で死なれたイエスが、三日目に甦られて、彼等に現れたからです。
「神が人となってこの地に、来られたのは、十字架で、私達の罪の為の身代わりとなって、私たちの罪の故に、御自身が裁かれ、そして、私達の罪を赦し、死から救うためだったと。」
十字架のイエスを見て、復活のイエスに出会ったときに彼らは、「ことば」であるイエスが、人と
なって、この地に来て下さった、その本当の意味が分かったのでした。
人を救うのは、律法ではないのです。人は律法を守ることによって、永遠の命が与えられるのではないのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
「恵みと真に満ちていた。」、イエス・キリストの内にこそ、恵みが満ち満ちているのであり、人となられた神であるイエスこそが、あなたに永遠の命を与えて下さるお方なのです。
どうか、あなたの痛み悩み苦しみを知り、丸ごと受け入れて下さるイエスを信じて、クリスマスを過ごしてまいりたいと思います。
米国で孤児院にいた少女のもとに、ある夫婦がやってきて面会し、その家庭に養女として迎えられました。少女には一室が与えられ、用意されていた人形などのおもちゃも手渡されました。
「おやつの時間よ、台所にいらっしゃい」今もらったばかりのおもちゃで遊んでいた少女は、母から呼ばれて喜んでかけつけました。
新しいお母さんは、大きなコップに並々とミルクをついで待っていたのです。「おかあさん、私はどれだけ飲んでいいの?」小さな手で大きなコップを用心深く持ちながら、少女は戸惑いながら母の顔をじっと見上げたのです。
新しいお母さんは最初その質問の意味が分かりませんでした。そして、少し経って、ようやく意味がのみこめた彼女は、目をうるませながら答えたそうです。「みんな、みんなあなたのものよ。ぜんぶよ」
この子は、大粒の涙を流しながら、このミルクを飲んだそうです。
そして、「みんな、みんなあなたのものよ。ぜんぶよ」この語り掛けを聞いたときから、この子の内に回復が始まって行ったのです。
人となって下さった、神イエスは、あなたの受ける痛み悩み苦しみ、そして心の傷に至るまで全部ご自分のものとして経験して下さって、あなたを丸ごと受け入れてくださる。そして、神の愛の語りかけをして下さるお方です。
どうか、このお方と共に、平安なクリスマスの時を過ごしてまいりたいと思います。
