光の降誕祭
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- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 1章1節~5節
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 1章1節~5節
「光の降誕祭」
旧約聖書:イザヤ書55:10-11
ヨハネ1:1-5
I.ことばであるイエス
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ver1)。この言葉は、ドイツの文豪ゲーテのファウストにも出てくる有名な言葉です。
「ことば」、非常に哲学的な表現です。ですから、多くの聖書学者は、この御言葉は、200年頃の、グノーシス主義の影響があったのではと語ります。
グノーシス主義とは、霊と俗二元論です。物質は悪で、霊は善、聖書よりも、何か神秘的な力から教えを受けることによって、救われると言ったような、異端的な教えです。ヨハネはその影響を受けていたのではないかと言われているのです。
ではヨハネは、なぜ、イエスのことを、イエスとは言わず、敢えて「ことば」と言ったのか。実は、ヨハネは、この福音書の読者であるギリシャ人を意識して書いたと言われています。
ユダヤ人は、「しるしを」求め、ギリシャ人は、「知恵」を探す(Iコリント1:22)。第一コリントの御言葉ですが、知恵を重んじる、ギリシャ人には、イエスを、「ことば」と書いた方が、理解できたのです。
この世界は、決して、偶然の産物ではない。その根底には、この世界を司る、絶対的な知恵がある。意思がある。その御方の意思の下に、この世界は創られている。この世界を見上げれば、何か絶対的な意志による統治がある事を認めざるを得ない。
どんなに混沌としているように見えたとしても、この世界は神の御手の中にある。そして、救い主イエスは、この世界を造られた、神ご自身である。
そのことを表すために、ヨハネは、初めに言葉がった。言葉は神と共にあった。言葉は神であったと、イエスを、創造の初めから世界を司っている「ことば」として表現したのです。
「ことば」。色々と理解することができます。しかし、大切なことは、「ことば」を聖書以外の様々な、言葉から理解しようとしないことです。唯、聖書の御言葉から理解するのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
この御言葉で、ヨハネは、マタイやルカが記した、あのベツレヘムの夜の出来事、神の御子が貧しい姿をおとりになられて、飼い葉桶にお生まれになられた。あのクリスマスの出来事を、表したのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ver14)。クリスマスとは、神の私達に対する、愛の語り掛けです。
「ことば」とは何でしょうか。神の私達に対する、愛と温もりの語り掛けです。私は、あなたを心から愛している。神のことばが肉をとって、この地上に来てくださった。
それが、「ことば」、神である、イエスご自身であり、クリスマスの出来事です。そして、イエスは、あなたの罪を許すために、十字架の死に至るまで、従われました。
十字架の死に至るまで従われる、よく言われます。しかし、イエスには罪がありませんから、本来死ぬ必要がありませんでした。それにも拘わらず、十字架の死に至るまで従われたのです。考えられない愛です。
「ことば」による語り掛ができるのは、人間だけに与えられた特権です。人は、その語り掛けを受ける事により何にも代え難い、自分の価値を認めるのです。人は、「ことば」で自分自身の存在意義を確認します。「ことば」によって、自分が愛されている存在、受け入れられている存在であることを確認するのです。本当に、「ことば」が人を育て、成長させ、人を生かします。そういう意味で、「ことば」には、温もりに満ちています。そして、温もりに満ちた「ことば」を掛けられてきた人は、人間関係もうまくいきます。
しかし、また、「ことば」で、人を殺すこともあります。だからこそ、人を生かす、「ことば」を語りかけるのです。聖書の御言葉を語るのです。人は語りかけられることによって、自分の存在の価値を見出し、今度は、自分が、そのことばを発していくようになるからです。
聖書は、あなたに語り掛けて下さる神が、おられるのだと語ります。あなたを愛していると語って下さる神がいるのです。私の目にあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛していると、語りかけて下さる神がおられます。そして、そのことばこそが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ver14)。イエス・キリストに他ならないのです。
人は神からの語りかけを実際に目で見ることはできません。だから神が人となって、この地に来て下さって、愛を目に見える形で見せて下さった。イエスを見れば、神の愛が手に取るように分かる。イエスの語られる言葉を通して、御自身の愛を神が明らかにされて行くのです。
人は、この語り掛けを聞く時安心する事ができます。この語り掛けを聞く時に、生きる意味を見出し、平安に生きることができるのです。
II.いのちのことば・イエス
「言の内に命があった」(ver4)。第二に、「ことば」である、イエスの内には、命があります。
永遠の初めに、「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」(創世記1:3)。光から始まり、神は、創世記1:26までの間に、「大空」、「海」、「様々な植物」、「昼と夜」、「太陽」、「星」、「昼と夜」、「魚」、「鳥」、「家畜」、「這うもの」、「地の獣」を次々と、「ことば」によって、無から創造されます。
そして、創世記1:26で、創造の冠としての人間を創造されて、全ての生き物を支配させようとなさいました。「ことば」は、命に満ち、命に溢れているのです。しかし、今「ことば」が、軽んじられています。
私は、大谷翔平選手の、「50-50」だと思っていましたが、今年の流行語大賞は、「ふてほど」でした。宮藤官九郎の、「不適切にもほどがある」という、昭和の熱血教師が、今の時代にタイムスリップしてしまうというドラマでした。
他にも、裏金問題、パリオリンピックの馬術で、銅メダルを取った、40代の選手達が言った、初老ジャパン、新紙幣等がBest10に入りました。
私は虎に翼の、「はて?」がベストテンに入らなかったのが意外でした。それでも、言葉は世相を反映していることが良く分かります。
SNSが世界を席巻している今、言葉が氾濫しています。しかし、SNSに溢れている言葉は、玉石混合です。最近は、聖書ですら、スマホで読んでいる人が沢山います。数年前、学生会のキャンプに出た時、日本語なのに、時々私はその意味を聞き返さなければ、ある時には、近くにいたスタッフに通訳してもらわなければ、学生達の話についていけないことがありました。
あの、「ふてほど」を観ておりましたけれども、昭和には、こんな言葉が罷り通っていたのかという、今では恐らく放送できないような言葉の、オンパレードでした。
本来、語り掛けられる、「ことば」と「内実」は伴っていなければなりません。しかし、巷に溢れている「ことば」は、「ことば」と「内実」が分離している。
では教会で語られる言葉はどうなのか。本当に命ある「ことば」が語られているのか。命の「ことば」である聖書が真っ直ぐに語られているのか。救い主イエスを伝える「ことば」が、真っ直ぐに語られているのか。
イエスの「ことば」は真実です。十字架に、命を投げ出した真実なことばです。だからイエスの「ことば」に触れるときに、人は魂が揺さぶられるのです。
しかし、牧師の語る「ことば」を聞いても、魂が揺さぶられることがない。自戒の意味を込めて私はこの言葉を語ります。救い主イエスの、「ことば」を語っているのに、もし、人々の魂が心が揺さぶられることがなかったとするならば、それは、牧師の責任です。
イエスは、ご自身を「ことば」で、明確に宣言されました。「わたしだ恐れることはない」(ヨハネ6:20)。大嵐の湖上の出来事です。エゴ―エイミー、これは神である私が一緒にいるから、安心しなさいという宣言です。
更には、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。
イエスは、命のこもった本物の言葉を語られました。「ことば」と、「内実」が伴っている。口先だけの愛ではなくて、あなたの罪の為に、十字架にかかるほどに、あなたを愛して下さった。そして、信じる者の罪を赦し、永遠の命を与え、人生を新しくして下さった。
神は、この愛の言葉を、今あなたに語り掛けて下さっているのです。この神の前に、心を開いて、神の言葉に聴き、命を得て行く者でありたいと思います。
III.光の降誕祭
「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ver4-5)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ver9)。
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(1:9 新改訳2017)。
今日の御言葉で、イエスは、人間を照らす光であったと語ります。しかし、その「ことば」であるイエスを、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:10-11)。
この「受け入れなかった」人々は、第一義的には、ユダヤ人です。しかし、ユダヤ人だけではありません。世界の人々、そして、ここにいる私達一人一人を指している言葉です。
又ここで「世」(ver10)といわれている言葉。ギリシャ語で、「罪に汚れた」、「無秩序な現代世界」を指しています。世界で最初のクリスマスがここにあります。
世界で初めのクリスマス。それは、世界中の人々に祝われたクリスマスではありません。全世界の人々によって、拒絶されたクリスマスでした。闇、それは、確かに、今この世界を覆っています。今年の世相を表す漢字は、一体何でしょうか。世界を見渡せば、戦争の現実がそこにあります。日本でも自然災害が多発しました。闇が世界を覆い、平和という言葉が儚く聞こえます。私達の心から希望が失われ、絶望に人々が立ち尽くす現実があります。
そして又私達の心の中にも闇がある。罪がある。この現実の中に、花小金井教会も、建てられている。聖書は、この闇を否定しません。
しかし、聖書は、一方で、この闇に対する、明確な勝利を宣言します。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ver4-5)。
理解しなかったというのは、「闇は光に打ち勝たなかった」というギリシャ語です。これは、神の明確な勝利宣言です。この勝利は決定しています。光が闇に負けることは、絶対にありません。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ver4-5)。
闇は光に打ち勝たなかった。光の勝利宣言です。確かに、人の目線で見れば、闇がこの世界を覆っているかもしれません。しかし、光である、イエスは、闇の中で輝いているのです。闇は決して、光に打ち勝つことはできないのです。
クリスマス、それは、光の勝利宣言、光の降誕祭です。絶望的な状況にあっても、光は、闇に打ち勝ちます。どうか、光であるイエスを信じて、クリスマスを心からお祝いしようではありませんか。
ある二人の人が、砂漠を旅しておりました。二人は少し前を進んでいった、砂漠の隊商の足跡を少しづつ辿っていました。所がです。途中で大嵐が二人を襲いました。1m先も見えない、砂嵐であります。暫く洞穴に非難しました。嵐が止み、外に出てみると、砂丘という砂丘は全部移動して、勿論辿っていた足跡も全部消えてしまいました。一人が言いました。「ああ、もう駄目だ。完全に道に迷ってしまった。もう絶望だ・・・」、
