恵みと平和
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 1章1節~2節
挨拶
1イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。 2あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章1節~2節
「恵みと平和」
旧約聖書:ヨブ記22:21
Iペトロ1:1-2
I.選びの根拠‐私達を知っていて下さる神
今日から待降節に入ります。主の御降誕を待ち望み、主の再び来たり給うのを待ち望む時です。
今日からクリスマスを考えながら御言葉に聴いて参りたいと思います。
さて、先日も申し上げましたが、ver1の原文では、「選ばれた人たち」が最初に出てきます。
使徒パウロは、手紙の宛先を、「召された人たち」とか「聖徒たち」へと呼んでいますが、ペトロは、「選ばれた人たち」と言っています。
先日も御言葉に聴きました。この手紙の著者、ぺトロは兄弟アンデレによって導かれました。そして、12弟子のリーダーになります。
しかし、彼は、決して強い人ではありませんでした。寧ろ様々な弱さを身に纏った人でした。
例えば、イエスが高い山に登られて、その御衣が白く変わって、モーセとエリヤと語り合っていた、あの出来事。
ペトロは、口を挟んで言うのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を
三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マタイ17:4)。
イエス様に伝道どころではありません。イエスを山上に引き留めようとするのです。更には、
イエスが、十字架に架かられ、三日目に甦られることをハッキリとお話になられているにも拘らず、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(マルコ8:32)。のはペトロでした。そして、
「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:33)。
このように言って、イエスから御叱りを受けたのでした。そして、あなた方は、私を誰というか、というイエスの問いに対して、「あなたは、メシア生ける神の子です」(マタイ16:16)。」という素晴らしい、信仰告白をしました。更には、イエスがペトロの裏切りを予告されたときも(マタイ26:34)
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)。この様に啖呵を切ったのでした。
しかし、彼は、十字架に架かられたイエスを見上げて、女中達から「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われたときに、「何のことを言っているのか私にはわからない」(マタイ26:69~)とイエスの事を三度も否定しました。しかも三度目は、 「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。」(マタイ26:74)。のでした。そのときに、「ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(マタイ26:75)。のでした。
しかし、彼はイエスの、三回に渡る、「あなたは私を愛しますか」という問いかけによって、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネによる福音書21:17)。このイエスの愛によって、彼はもう一度、立ち上がる事ができたのでした。
そして彼は、多くの人に福音を伝え、最後は殉教の死を遂げていった。
そして彼は、弟子として用いられて、この手紙を書くに至るまで、変えられていった。イエスは、彼の過去ではなくて、彼のこれからに期待して行かれました。
主はペトロのこれだけの弱さを御存じの上で、敢えて彼を選ばれたのでした。今日はまず、その選びの土台について、御言葉に聴きたいと思います。
それは、「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“」(ver2)。ということです。これは、「父なる神の予知のままに」ということです。
神は、私達のことを、「予め、知っておられる」、「前もって、知っておられる」ということなのです。神は、私達のことを、前もって知っていて下さり、救いへと選んで下さったのです。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(ローマ8:29)。と、パウロが言っている通りです。
神は、私達の、髪の毛の数をも知っておられます(マタイ10:30)、実際に神は、被造物のことを、全て知っておいでになります。ダビデは、神に向かって次のように言いました。
「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」(詩編139:1-4)。
プロポーズあの日に戻って断りたい。これは、綾小路公磨さんの言葉ですが、実際に結婚したことを後悔している方とお話をしたことがありました。「こうなることが分かっていたら、彼を選ばなかった」というのです。これが人間の知性であり、理性の限界なのです。しかし、神は、私達のことを、良く知らなかったから、分かっておられなかったから、選ばれたのではありません。全てをご存知の上で、私達を選んで下さったのです。
あのペトロの全てを御存じの上で、彼を弟子として選ばれたように、私達の強さも、弱さも、どれ程、自己中心的か、そして、高慢か、更には、私達が何を必要としているか、私達の性格や賜物、私達の全てを神は知っておいでの上で、神は私達を選んで下さったのです。
ある意味、自分のことは自分が一番よく知っていると言って憚らない、私達以上に、神は私達のことを知っておいでになるのです。それでも、私達を選んで下さったのです。
そして、その、選びの目的は、二つあります。それは第一に、私達が“霊”によって聖なる者とされるためです。
聖霊によって、聖なる者になるためなのです。「聖なる者になる」、これは別に、「完全無欠なものになる」ということではありません。聖霊が、私達に語りかけて来て下さるときに、私達は、自分の罪を知ることができる、弱さを知ることができるのです。
人間は、自分の本来の姿のままでは、自分の罪を知ることはありません。自分の弱さに気が付くこともないでしょう。
しかし、誰でも聖霊によらなければ、イエスを主であると告白する事が出来ないと(Iコリント12:3)。と言っているように、聖霊のお働きがあるときに、自分の罪を知り、自分の弱さを知ることができるのです。
私は、大学生の時に自分の罪を知り、弱さを知りました。私は大学生の時、自分で何でもできると思っていました。
ですから、聖書を読んでも意味が分からず、幾らで伝道されても、罪もましてや、自分の弱さなんて分かりませんでした。
今名古屋岩の上教会の牧師をされている相馬先生が、学生時代一生懸命に私を伝道して下さいました。私は、契約の子です。折角クリス
チャンホームに生まれたのにイエスの恵みが分かりませんでした。自分の罪深さが分からなかったのです。「何で僕が罪人なんだ!!」私は、口角泡を飛ばして応戦しました。
しかし、ある時に、聖霊に臨んでいただいたときに、自分の罪が分かり、自分の弱さを知りました。その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。とございますけれども、私の罪のために、イエスが十字架で血を流して下さったということを知ったのです。
何の罪も無いお方が、一点のシミもしわも、曇りもないお方が、全く無垢なお方が、十字架でその血を流さねばならないほど、私の罪は大きいのだ。自分自身の全存在が、神に背を向けて、歩んでいたことを、聖霊に臨んでいただいたときに、知ったのです。
聖霊によって、聖なる者になる、これが選びの第一の目的です。
そして第二に、イエスに従うために、私達は選ばれたのです。私達は、信じるために選ばれました。
いや逆です。選ばれていたからこそ、信じました。しかし、信じたのは、自分勝手な生き方をするためではなくて、イエスに従うために、私達は選ばれたのです。
選ばれたのは、只神様の恵みです。憐れみです。選んで下さった、神に、信仰をもって応答して行こうではありませんか。私のような者の罪を赦して下さった主に感謝して、従う者でありたいと思います。
II.恵みと平和があるように
最後に恵みと平和という言葉がでてきます。実は、手紙の冒頭の挨拶を、このように、祝福で結んでいくのは、当たり前の事ではありません。
新約聖書には、27巻あり、その内21巻が手紙ですが、冒頭の挨拶を祝福で結んでいるのは、パウロの書いた手紙とペトロの書いた手紙だけなのです。
私達は、何故手紙を書くのでしょうか、それはやはり、自分の想いを届けたいからです。そして、やっぱり、クリスチャンの想いというのは、その人のために、神の祝福を祈るということだと思います。
他の人のために、祝福を祈ることができるというのは、幸せなことだと思います。皆さんどうでしょうか。この朝誰かのために、神の祝福をお祈りしたでしょうか。
他の人の為に祝福を祈る。これは、クリスチャンの特権です。
では、ペトロの祈った祝福の中身は、何でしょうか。それは、恵みと平和です。
まず、「恵み」という言葉から見ていきたいと思います。「恵み」これは、キリスト教信仰の中で、最も大切な言葉の一つでしょう。
旧・新約聖書併せて、500回以上出てくる言葉です。~恵み教会これは日本を問わず、~グレースチャーチ、世界にもたくさんあります。恵ちゃん、恵太くん、恵一君、クリスチャンホームの子弟でよくお見掛けする名前です。
「恵み」とは何でしょうか。それは、それに値しない者に、神が、何かをしてくださることです。相応しくないのに、大変よくしてもらうことです。
私達には、沢山の恵みがあります。命、空気、水、美しい花々、木々、この地球、食物、着るもの、家族、友達、見、聴き、話し、考える力。食べる楽しみ、コミュニケーション能力、私達にとって、これ等は、決して当たり前のことでありません。全てが神の恵みなのです。
沢山与えられていても、不満だらけの人がいます。しかし、少ししか与えられていなくても、満ち足りている人もいます。
ペトロがこの手紙を書いたその対象の人々は、色々な困難に遭遇している人々でした。し
かし、そのような、困難の中にある人々に対して、ペトロは、神による沢山の恵みがあることを知ってほしいと願っているのです。
自分の弱さ、罪に絶望して、イエスの十字架を仰ぐときに、自分の罪が許されたことを知る。そして、その時に初めて、私達は、真の平和を手にすることができるのです。
宗教改革者達が掲げた言葉の一つは、この「恵みのみ」でした。「ソラ・グラティア」でした。イエスの十字架の犠牲によって、私達を、一方的に義と認めて下さる。正しいものと認めて下さる。全てが、神の恵みなのです。
私達には、沢山の恵みがあります。命、空気、水、美しい花々、木々、この地球、食物、着るもの、家族、友達、見、聴き、話し、考える力。食べる楽しみ、コミュニケーション能力、私達にとって、これ等は、決して当たり前のことでありません。神の恵みなのです。
そして、最後が、「平和」です。「平安」とも訳せます。新改訳は、そのように訳しています。
「平和」というのは、世界の平和、社会の平
和、家庭、家族の平和、争いのない状態です。この言葉の背後には、ヘブル語の「シャローム」があります。
ユダヤの人々は、朝に夕に、シャロームと挨拶をします。「平和」、「平安」がありますようにと挨拶をします。しかし、これは、一般的な平和ではなく、神との平和を表しています。
ヨーロッパや聖地で戦争が続いている今の時代、世界の平和を祈らない人はいないでしょう。社会が平和であることも素晴らしいことです。私達は社会が平和でなければ、中々落ち着いた生活を送ることはできません。
家庭が平和である。これも大事なことです。家庭が荒れていると、毎日が地獄です。
しかし、一番大事なことは、何でしょうか。それは、私達が、神と和解していることです。神との平和を得ていることです。「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」(ヨブ記22:21)。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。
神との平和があって、初めて、心に本当の意味での平安が与えられ、初めて、世界の平和、社会の平和、そして、家庭の平和が訪れていくのです。そして、神との平和を求めていく歩み。それこそが、クリスマスメッセージです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)
御使いが羊飼い達に語ったメッセージ、それは、「地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)。という事でした。
当時、羊飼いは、神の恵み神の平和から最も遠いと思われていた人でした。
しかし、そんな彼らに地には平和、御心に叶う人にあれと天使が語り掛けた。
そして、この神との平和を人々に齎すために、御子イエス・キリストが、この地上にお生まれになられた。それが、クリスマスなのです。
そして、イエスは、最後には、十字架の死にまでも従われたのです。
私達も、イエスを救い主と信じ、神との和解を得ていく時、真の平和を手にすることができるのです。第一次世界大戦(中、フランスとドイツが戦火を交えていたときに、戦場に咲く一輪の花のかぐわしいバラのような忘れえない事件が起こりました。
凍るようなクリスマスの夜でした。寒さに凍えながら、フランス軍は、ドイツ軍の塹壕へ手榴弾を投げていました。その時誰かが、ため息まじりにつぶやきました。
「今頃故郷の教会では賛美歌を歌っているなあ」、「よし、俺達も歌おう」、暗い中から、弾んだ声がそういったのです。
やがて彼の小隊の塹壕から小さなささやきのような賛美歌がわいてきたのです。それは野火のようにフランス軍の前線塹壕全体に広がり、大合唱と変わっっていきました。
すると、どうでしょうか。ドイツ軍の塹壕から投げこまれる手榴弾がだんだんと少なくなり、とうとうなんの爆発音も、苦痛にゆがむうなり声も聞こえなくなったのです。
そして、その夜は遅くまでフランス語とドイツ語の賛美歌が、交互に合唱されて続けられたのでした。こうして、思いもかけない、クリスマス休戦が実現したのでした。
恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
神の恵みと平和が豊かにありますように。
