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2024年11月24日「心に決めたとおりにしなさい」

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6つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。 10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 9章6節~10節

原稿のアイコンメッセージ

「心に決めた通りにしなさい」
旧約聖書:箴言11:24-25
IIコリント9:6-10

I.力に応じて、力以上に
 さて、今日は献金についてのメッセージですが、一つ問題です。礼拝で席上献金の段になって、財布を開けたら、そこには一万円札しか入っていませんでした。
 今でいえば、一万円札は、クリスチャンであると言われている渋沢栄一さんです。彼がじっとこっちを見ているのです。
 皆さんなら、どうされるでしょうか。日頃は、千円札だけれども、思い切って、献金の籠に入れるか、それとも、思い止まって、今回はパスをするか。

 これは私達、一人一人にとって、問われるところです。実は、献金というのは、お金の問題というよりも、私達の主に対する心の問題、更には、信仰の問題ということができます。今日は今読んで頂いた御言葉を中心にしながら、少し幅広い箇所から、パウロの、献金についての考え方について、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 このコリントの信徒への手紙第二の8-9章は、献金についての勧めです。これは当時、貧しかったエルサレム教会のクリスチャン達を異邦人教会がどのように助けていったのか。その記録です。
一般的に、日本人はお金の問題は、タブーです。その根底には、お金は汚いものであるという考え方があるのかもしれません。
しかし、聖書は、お金は悪であるとは決して語りません。寧ろ、それを使う人間の心が、「金銭の欲はすべての悪の根です」(Iテモテ6:10)。と語り、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」(ヘブライ13:5)。と語ります。
そのように考えると、献金に対する考え方は、その金額よりも、それを献げる、私達の心が神から問われているのだ。このように、言う事が出来ると思います。

ですから、献金は、最善の注意をもって取り扱われていかなければなりません。そこでパウロは、神の為に献げられた献金がいい加減に扱われることがないように、コリント教会に派遣される相応しい献金管理者が与えられることを祈っていたのです。
その時に与えられたのが、三人の人々でした。それは第一に、テトスです(8:16-17)。
第二が、「福音のことで至るところの教会で評判の高い人」(8:18)。
そして第三が、「この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています」(8:22)。この三人の人々に献金の管理を委ねたのでした。

パウロが、何処の教会に於いても、神の働きを進めていたのは、それは、唯々神の栄光が現わされるためでした。
 しかし、現実的には、献金がなければ神の働きは前進しません。ですから、パウロは唯、神の御栄光の為だけに、献金を集めていたのです。しかし、残念ながら、彼のような人物でも、誹謗中傷する人々は沢山いたのです。
 実際に教会に行ったらお金を取られたといったような話も聞いたことがありました。
あのパウロですらも、彼がマケドニヤの教会からの自発的な献金によって、伝道をしていた時に、それを否定する人々がいました(11:8-9)。
更にはエルサレム教会に対して、非常に熱心に彼が献金を集めている時にも、それは決して、無私無欲の働きではないと言いふらす人々がいたのです。ですから、パウロは、3人の兄弟達を選ぶことによって公明正大に、献金を管理しているのだと、明らかにしたのです。
 これは今日の教会に於いても大切なことです。献金を正しく管理することは、大切なことです。その収支は必ず毎月、必ず教会員に報告されなければなりません。
献金については、一円たりとも、教会員に疑義を持たれてはなりません。献金には、官房機密費とか文書交通費と言った、報告をしなくてもよい、所謂使途不明金何ていうのは、存在してはいけないのです。
 何故でしょう。それは、献金は、教会に献げられるものではなくて、神に献げられたものだからです。私達が神に、献げたものだからです。
私達の持てるものは全て神の恵みによって与えられています。この身体も、家族も、仕事も、生活も、健康も、富も、そして、この世界も皆神さまが私達に与えて下さっているものです。
 その世界で生きている私達。勿論現実的には、お金がなければ生きていくことができません。ですから、どうしても、生きていくためには働かなければなりません。
しかし、お金が私達を生かすのではないのです。私達を本当に生かして下さるのは、天の父なる神様なのです。その神の許しがなければ、私たちは、生きていくことができません。私達の命を本当の意味で守っていて下さるのは、天の地父なる神様なのです。
 
だから、私達は、決してお金が私達を生かしているのではない。神が私達を生かしていて下さっているのだ。そのことを信仰的に表すために、持てるお金のある一定の額を神にお返しするのです。献金するのです。
 そして、私達は、献金を通して、私達を本当に生かして下さっているのは、お金ではない。父なる神様なのです。と証をするのです。
 では、その献金の第一の原則は何でしょうか。それは、マケドニヤの教会の兄弟たちの姿の中に、端的に表れているのです。
「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」(8:3-4)。
 それは力に応じて、力以上にという事です。力に応じて、力以上に神様にお返ししていくのです。聖書は何も、何処かの信仰宗教のように、田、畑を売って、家を売って、屋敷を売って、献金しなさいとは勧めてはいません。私達は、神から与えられた財を用いて、正しく、生活を管理していかなければなりません。しかし、それでも大切なことは、力に応じて、力以上に献金するという事なのです。
  私は、受洗や加入の学びをする時に、必ずこの話をしますが、私達は、日々の生活の中で、ちょっと、イテツと思うような献金をするのです。
この額を献金すると、ちょっと今月は痛いなと思うような、額を献金するのです。
 ちょっと今月は痛いなと思うような額は、人によって違うでありましょう。しかし、ちょっと、イテツと思うような献金をする。それが、力に応じて力以上にという事なのです
 II. 恵の応答としての献げ物
 では私達の献金の同機は何でしょうか。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(8:9)。

 これはまさに、クリスマスのメッセージですが、全知全能の神である主が人となって下さった。イエス・キリストが、私達と同じ、弱さを持つ人間となって下さった。
 疲れ、眠り、空腹を覚える、人間となって下さった。そして、私達の心の中にある業、罪を背負って十字架に架かり、信じる私達に永遠の命の恵みを与えて下さった。
 無限の神であったイエスが、豊かであった神であるイエスが、有限な限りある人となって下さった。そして十字架の死に至るまで従われて、私達を豊かにして下さった。永遠の命を与えて下さった。これこそが、この恵み感謝することこそが、献金の同機なのです。

あのソロモン王は、神殿建築が終わり、宮殿建築が終わったときに、イスラエルの全会衆の前で、手を挙げ、祝福して、祈りました。

「約束なさったとおり、その民イスラエルに安住の地を与えてくださった主はたたえられますように。その僕モーセによって告げられた主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように」(列王記上8:56-57)。

こうしてソロモンは、神の御恵みに感謝して、生贄を捧げました(列王記上(8:62)。
それは流石、栄華を極めたソロモンと聖書が語るように、凄まじい献げ物でした。

「ソロモンは和解の献げ物として牛二万二千頭、羊十二万匹を主にささげた。こうして、王はイスラエルのすべての人と共に主の神殿を奉献した。その日、王は主の神殿の前にある庭の中央部を聖別して、そこで焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物である動物の脂肪をささげた。主の御前にあった青銅の祭壇が、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物である動物の脂肪を供えるのには小さすぎたからである」(列王記上8:63-64)。

ソロモンは、神殿の完成を神に感謝して非常に莫大な生贄を献げたのです。そして、一切を導いて下さった、主に感謝しました。これは、素晴らしい事をなして下さった神に対する献身の表れだったのです。

私達は何故神に献げ物を献げるのでしょうか。それは、まず神が私達の人生に素晴らしい事をして下さったからなのです。そして、私達はその恵みに感謝して、献げ物をするのです。この図式、この信仰の心の在り方を忘れてはなりません。
多くの新興宗教も献げ物を要求します。しかし、それは、人々の欲に訴えるものであり、人々の恐れに訴えるものです。癒してほしければ、これをして欲しければ、まず、これだけのものを献げなさいという考え方です。
信仰宗教の献げ物、献金に対する考え方は、キリスト教のそれと全く違います。私達の人生に偉大な事をして下さった神の御恵に感謝して、神の御前によきものを献げていく、それこそが、その様な歩みをするものでありたいと思います。
III.心に決めたとおりにしなさい
 そして、最後に、献金に対する、私達の心の在り方です。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(ver6)。
 ここでパウロは、献金をすることは、蒔くことであって、決して失うことではないという事を、言っているのです。芽を出して、実を結んでいくのです。
 ここで、パウロが、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は」、と言っていますが、これは、「少しだけ」というギリシャ語ですが、献金というのは、その献げる額が問題なのではなくて、「惜しんで」という心の在り様が問題なのです。

 献金の額が問題なのではなく、それを惜しむ。心が問題なのだとパウロは言っているのです。
 
反対に、「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(ver6)。これも又、献金の額が多いという事ではなくて、物惜しみしないという心の在り様を述べているのです。
 「散らしてなお、加えられる人もあり/締めすぎて欠乏する者もある。 気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う」(箴言11:24-25)。

 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:38)。イエスも言われました。

 「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(ver7)。
 これは、「しぶしぶ」という言葉で、新改訳は、2017で、「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(ver7)。と訳しています。
 これはお金を出すことを悲しむ心です。また、献金は決して強制されるものではありません。
 周囲の事情によって、習慣的に止むなく従うという事ではなくて、何処までも、自発的な信仰なのです。

 そして、それは、「こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(ver7)。
 収入や支出を考えて、主を愛する心から、こうしようと予め決めておくのです。
 新約聖書の時代の献金の基準があるとするならば、それは、心に決めたとおりにすること。そして、喜んでそれをするという事なのです。
 旧約の時代には、十分の一献金というあのマラキ3:10の基準がありました。
 
しかし、新約の時代の献金、それは、数量ではなくて、動機や目的、そして喜んでささげる。その霊的な動機が、何時も神の御前に問われてくるのです。神は喜んで献げる人を愛して下さるのです。

 こう考えると、最初のあの、礼拝で席上献金の段になって、財布を開けたら、そこには一万円札しか入っていなかった、さて、それを献げるか、それとも今回は、パスをするかという話に戻りますが、私達が、喜んでそれをすることができるならば、一万円を献げたら良いと思います。
 パウロの言うように、それが、不承不承であるならば、今回はパスしても構わないと思うのです。喜んでささげる。これが、献金の同機の全てなのです。

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(ver8)。

主は喜んでささげる人を愛し、祝福して下さるのです。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(ver10)。
献金は失うことではなく、寧ろ神の御前の種まきです。神はきっと、喜んで献げる人を愛して、何倍にもして、祝福して下さるお方です。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(ver7)。
「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(ver7 新改訳2017)。
心で決めた通り、喜んでささげる者でありたいと思います。

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