2024年11月17日「イエスは復活、命」

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イエスは復活、命

日付
説教
小堀尚美信徒説教者
聖書
ヨハネによる福音書 11章17節~27節

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聖句のアイコン聖書の言葉

イエスは復活と命
17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

イエス、ラザロを生き返らせる
38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 11章17節~27節

原稿のアイコンメッセージ

「イエスは復活、命」
ヨハネによる福音書11:17-27、38-44

今日の聖書個所は、イエスのなさった七つのしるしの最後、クライマックスです。イエスが「わたしたちの友ラザロ」と呼んで、格別に愛されたラザロをよみがえらせる奇跡です。

最初のしるしから六番目までは、1頁の約半分の長さで書かれています。けれども、この最後のしるし、ラザロのよみがえりは2頁、他のしるしの4倍の長さです。

ヨハネによる福音書が書かれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と、20:31にありますが、
この目的の為に行なうのだと、イエスが予め明確に語ってから為されたのが、今日のラザロのよみがえりです。
 
イエスは父なる神に、「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(11:42)と言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と叫んで、死んでいたラザロをよみがえらせたのです。(11:42-44)
 
水を葡萄酒に変え、役人の息子や38年間病気だった人を癒し、五つのパンと二匹の魚で1万人もの人々を満腹させ、湖を歩き、生まれつき目の見えない人の目を開かれたイエスは、遂に人類の最強の敵である「死」と対峙されるのです。

進路について悩んでいるなら、先生や先輩からアドバイスを戴けます。恋愛や就職、結婚で迷っているなら、経験者に相談もできます。けれども、「どうしたら、死を乗り越えられますか。」この問いは、誰に相談したら良いのでしょうか。
生まれてきた以上、必ず死ななければならないのに、この問いに答えが無いとしたら、人生は何と空しく、残酷なものではないでしょうか。
やがて崩れ去ると分りきっている砂の上で、努力をし、踊ってもみ、気を紛らわせて、時を費やさなければならない。これが私達の人生の正体なのでしょうか。神はそのような空しい者として、私達人間を創造されたのでしょうか。

イエスは言われました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
(ヨハネ11:25-26)

これをしたら、あれをしたら、この道を行けば、あの道を行けば、ではなく、
「わたしが復活であり、命である」と、イエスはご自分を、私達に差し出したのです。
復活であり、命であるイエスを信じ、受け入れる者は、死んでも生きる。決して死ぬことはない。その証拠に、イエスは死んだラザロをよみがえらせたのです。

早速、聖書に耳を傾けてまいりましょう。

Ⅰ.神の愛と栄光の故に
七つ目のしるしは、こう始まります。(11:1-2)
「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。」

 ベタニアは、エルサレムから3Kmの所にある小さな村です。そこに3人の兄弟がいました。姉のマルタは、もてなし上手で働き者、妹マリアは、イエスの足元に座り、イエスの話に聞き入っていた女性、又、高価なナルドの香油をイエスに注いだ女性として有名です。
この二人の姉妹の弟が、ここで初めて登場するラザロです。

「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」と言われるくらい、ベタニアと言えば「ああ、マルタとマリアだね。」と弟子達に親しまれており、イエスと弟子達が、度々宿泊し、働きの疲れを癒した温かい家庭です。

その弟ラザロが病気になった。そこで、マルタとマリアは、イエスの元に使いを遣って、
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(11:3)と伝えたのです。

「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」
この短い言葉の中に、二人の姉妹とイエスとの温かい信頼関係が感じられます。

マルタとマリアは、イエスがラザロを愛しておられるのを知っていました。イエスを家に迎え、共に過ごす中で、二人はそれを実感し、体験していたのです。ですから、ラザロのことを、「主よ、あなたの愛しておられる者が」と言ったのです。

イエスはラザロを、私達兄弟を愛して下さっている。私達はイエスの愛を身に染みて感じている。だから、ラザロの病気を伝えさえすれば、もう十分。それ以上言わなくても、主はラザロと私達を心配して、飛んで来て下さるだろう。二人は、イエスという御方を知っていたのです。
 
そして、実際、5節を見ますと、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。

ところが不思議なことに、イエスは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(11:6)のです。
新改訳聖書では、「そのようなわけで」と書かれています。
イエスは、マルタとマリア、ラザロを愛しておられた。そのようなわけで、ラザロの元へ飛んでいかずに、なお二日間同じ所に滞在されたのだというのです。愛する者が病気なのに、何故だろうと、疑問が湧いて来ます。

実は、3節で「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と、マルタとマリアが言った「愛する」という言葉は、原典のギリシャ語では、人間の友情を表す愛が使われています。
「主よ、あなたと私達の弟ラザロは、友情の絆で結ばれていますよね。」という意味です。

一方、5節の「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」の「愛する」には、神の愛を表すギリシャ語が使われています。

マルタとマリアは、イエスとラザロの友情を信じていましたが、イエスは、人知を超えた神の愛で、彼らを愛しておられたのです。
それ故に、敢えて、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」(11:6)
ここに、神の御計画があったのです。

4節で、イエスはこう言われます。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:4)

ラザロの病気は死で終わらず、よみがえりへと繋がっていくものでした。イエスが、死んだラザロをよみがえらせるのを見て、弟子達が、そして周りの人々が、イエスこそ神の子救い主であると信じる為、そうして神の栄光が現わされる為に、イエスは「なお二日間同じ所に滞在された」のです。
「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」(11:11)と言われた通り、イエスにとってラザロの死は、眠りに過ぎないのです。

もう一つ、ラザロの病気が死で終わらず、イエスが栄光を受けることになる(11:4)理由があります。
それは、死んだラザロをよみがえらせたことがきっかけとなり、イエスに敵対していた祭司長とファリサイ派の人々が、遂にイエスを殺すことを画策し、イエスが十字架につけられる「時」が、決定的になるからです。

イエスは度々、「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4、7:6、7:8)と言って、十字架の時を意識して来られました。そして十字架に架けられる時を、「人の子が栄光を受ける時」(12:23)と呼んだのです。
イエスが十字架で、私達の為に命を捧げて下さること。これが、神の救いの御計画であり、この為にこそ、イエスは父なる神から遣わされたのです。
私達が神に背き、神に対して犯した罪、その罪の裁きを、イエスが私達の代わりに、十字架で引き受けて下さり、それによって、イエスを信じる私達の罪が帳消しにされ、赦されて、復活の命、永遠の命が与えられること。これこそが、神の栄光なのです。
ラザロの死と復活は、イエスの十字架の死と復活という神の栄光への導線であり、イエス御自身が復活であり、命であることの「しるし」だったのです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

神の内にこそ、完全な救いの御計画が用意されているのです。

Ⅱ.イエスは復活、命
さて、イエスがやって来た時、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたってい」(11:17)ました。遺体の腐敗が始まり、もしかしたら蘇生するのでは、という一縷の望みも断たれ、マルタとマリア、弔問客が嘆き悲しんでいる所に、イエスはやって来たのです。

マルタは、言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(11:11-22)

マルタはイエスを知っている。悲しみの中でもイエスを信じている。けれども、そのイエスは、実際のイエスよりも小さく、限界があり、ラザロの死に対しては何もできない、私達人間と同じ無力なイエスなのです。
イエスを自分の経験や知識の中に小さく収めながら、でも、信じている。マルタの姿は、私達の姿ではないでしょうか。

そんなマルタに、イエスは言われます。
「あなたの兄弟は復活する。」(11:23)
マルタは答えます。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」(11:24)
伝統的なユダヤ人の信仰の枠組みです。

すると、イエスは言われます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25、26)

終わりの日の復活を待つまでもなく、「わたし
が復活であり、命なのだ。」わたしを信じ、受け入れる者は、今既に、復活の命をもっているのだ。死によって傷つけられることのない命、地上の人生が終わっても、滅びることのない復活の命。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25-26)
イエスは今日、私達に問いかけておられるのです。

Ⅲ.死に打ち勝つイエス
さて、33節-38節には、イエスの心が激しく揺さぶられる様子が描かれています。

イエスは、マリアが「泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」(33)、「どこに葬ったのか」(34)と問い、ラザロの墓に案内する彼らの傍らで、「イエスは涙を流された」、思わず涙をこぼしたのです。
愛する友ラザロが死に、墓に葬られた。マルタもマリアも打ちのめされて、弔問客と共に泣いている。この現実を前に、イエスの目から、思わず涙が零れ落ちたのです。

ラザロをよみがえらせる為に、イエスは墓に向かっている。ラザロの復活は、御自身によって一歩ずつ近づいているのに、それでもイエスは、思わず涙を流されたのです。
天での再会を知りながらも、愛する人の死を悲しむ私達の傍らで、イエスも涙を流して下さる。私達の悲しみを、イエスは引き受けて下さるのです。

イエスが「心に憤りを覚え」(33、38)たのは、私達人間を打ちのめす「死」に対してだったのです。
人間は本来、神と共に永遠の命の内を歩む者であったのに、蛇に唆され、「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:17)と神に禁じられた木の実を食べて、死ぬべき者に堕落してしまったのです。

死が、まるで暴君のように人間を支配しているのを見て、イエスは、死と、それを齎した悪魔に激しい憤りを覚えながら、墓に来られたのです。
「その石を取りのけなさい。」(11:39)
するとマルタがイエスを止めようとします。
死んで四日では、もう腐っています、と。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25-26)
こう問われて、
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)と、立派な告白をした矢先に、イエスの御業を止めようとしたマルタ。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(11:40)と、マルタの信仰を引き上げるイエス。
そして人々は、イエスの言葉に従って、「石を取りのけ」(11:41)たのです。

「ラザロ、出て来なさい」(11:43)
イエスが大声で叫ばれると、死んでいたラザロがよみがえり、墓から出て来たのです。

ラザロよ、私の愛する者よ、あなたを支配しているのは、死ではない。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

復活であり、命であるイエス・キリストこそが、私達を治めておられる真の神、救い主なのです。
この御方を見上げて、今週も歩んでまいりましょう。

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