2024年11月10日「選ばれた人たちへ」

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選ばれた人たちへ

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説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章1節

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挨拶
1イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章1節

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「選ばれた人たちへ」
旧約聖書12:1-4
Iペトロ1:1
I.人は変えられる
 この手紙を書いたのは、「イエス・キリストの使徒ペトロ」です(ver1)。元々の名前は、「ヨハネの子シモン」ですが、彼が兄弟アンデレに導かれて、イエスに出会ったときに、主は彼を、「ケファ」=「岩」(ヨハネ1:42)と呼ぶようになるのです。
 「ケファ」とはアラム語で、「石」のことです。ギリシャ語の、「ペトロ」も「石」のことを意味しています。彼は、漁師です。ガリラヤ湖畔で、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」(マタイ4:20)この御言葉によって、イエスに導かれて、12弟子の中でもリーダー的な存在になりました。

 弟子達を代表して、イエスのあなたがたはわたしを何者だというのかという問いかけに対して、    
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)。

 しかし、彼は、自分を知らないのです。イエスがあなたがたはわたしに躓くと言われた時も、
「するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った(マタイ26:33)。
更にはイエスが「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(26:34)。と言った時も、 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った(マタイ26:35)。

 しかし、彼はその舌の根も乾かない内に、彼は最高法院の中庭に於いて、イエスの事を三回も知らないと言って、「ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(26:75)。
 
しかし、その三日後、復活のイエスが彼に出会って下さり、ヨハネの子シモンあなたは私を愛しているか?という三回に渡るイエスの問いかけに、主よわたしがあなたを愛していることは、あなたが一番ご存じです。と答え、わたしの羊を飼いなさいとペトロに新しい使命を与えられるのです(ヨハネ21:1-17)。

こうして彼は、もう一度立ち上がって行くのです。そして最後は、多くの民に主を伝え、殉教の死を遂げていくのです。

 これがペトロの姿なのです。彼はイエスによって召されて、弟子になりました。しかし、決して完全な人ではありません。元々は、積極的な人ですが、粗削りで、性急に物事を考えるタイプで、情熱的ですが自分の思いで突き進むタイプでした。

 色々な弱さを抱える、普通の人でした。ぺトロ=岩と呼ばれながら、寧ろ物事に振り回されて行く、川の流れに押し流されていくような「石ころ」のような人です。
 でもそんな彼が失敗を通して、経験を通して、躓きを通してでも変えられて、整えられて、成長していくのです。そして、この二つの手紙を書くようになるのです。人は変わるのです。いいえ人は変わります。人は変わるのです。イエスは、彼の過去ではなくて、彼のこれからに期待して行かれました。イエスは、私達の過去ではありません。過去は、失敗があっても弱くても足りなくてもいいのです。イエスはいつも私達のこれからに、期待していて下さるお方です。

彼は、イエスに期待されて、過去が赦されて、取り扱われて、この手紙を書く者へと変えられていきました。

 イエスは、いつも私達を変え続けて下さいます。私達に期待し続けて下さるお方です。私達の過去ではなくて、いつも、これからに、期待していて下さるお方なのです。

ですから、私達も自分はダメだ。あの人はダメだと、レッテルを張ってはいけないのです。主が変える事が出来ない人は一人もいないのです。

 過去流した涙で、未来まで染めてはいけないのです。主はどんな人でも変える事が出来るお方なのです。
II.選ばれた人たちへ。
 「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」(ver1)。

 原文で最初に出てくる言葉、それは、「選ばれた人たちへ」です。パウロは、手紙の宛先を、「聖徒たち」とか、「召された人たち」と言っていますが、ペトロは、「選ばれた人たち」といっています。

神が私達一人一人を選んで下さったのです。イエス・キリストにあって、救いへと選んで下さったのです
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)。パウロは言っています。

ヨハネはその福音書でイエスの思いを次のように語りました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)。

 私達がイエスを選んだのではありません。私達がイエスによってえらばれたのです。しかし、そうなるに相応しいから選ばれたのではありません。一方的な恵みによって、選んで下さった。主が選んで下さったのです。

 ですから、選ばれたという事は、今度は選んで下さったお方が、私達の救いに対して、全責任を負って下さるという事です。

 そう考えると、救いと私達の意思、そして、私達の感情は一切関係がありません。
 
私達の心がどんなに、沈むようなときがあったとしても、躓くようなときがあったとしても、主に背中を向けてしまうようなときがあったとしても、そのような、私達一人一人の思い、感情とは一切関係なく、主は私達一人一人を選んで下さった以上は、救いの中に保ち続けて下さるのです。

ですから、私達は、安心して信仰生活を歩んで行くことができるのです。
また伝道にしてもそうです。この街には、私の民が大勢いると聖書は語りますが、この街にも主が選んで下さっている人々がいるのですから、私達は安心して伝道に励む事が出来るのです。
「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」(ver1)。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)。
主の選び、それは、私達に信仰の安心を与えるのです。
III. わたしたちの使命
次に、「仮住まいをしている」と御言葉は語ります。これは、「寄留者」という意味です。
 
わたしは意外に思われるかもしれませんが、沖縄が大好きです。暇さえあれば、沖縄に行くチャンスを伺っています。因みに我が家のコップは、殆どが琉球ガラスです。

私は、31歳~35歳まで沖縄で生活しました。勿論沖縄は、日本です。外国ではありません。

しかし、あの時福岡から沖縄に入ったのですが、那覇に降り立った時のその雰囲気は、福岡で感じたそれと全く違いました。どちらかと言えば、東南アジアに近いような雰囲気でした。
生活を始めた二日目、三日目ぐらいだったと思います。
 
街のあるおばさんに、言われました。「あんたいつ帰るね」。生涯をかけて伝道をしようと沖縄に来た私にとって、この言葉はショックでした。
街のお婆は、私に聴かれたくない話になると、うちなーぐち=沖縄の方言にパッと変えました。

ある方は、国際通りでの買い物から帰って来られて直ぐに、私に言いました。「ないちゃ~ばっかりさ」。これは、本土の人ばっかりさという意味です。また福音を語っていたら、「沖縄には沖縄の神さまがいるから結構です」と言われたこともありました。

そして、最後に東京に戻るときには、「お国の伝道は楽よ」と言われて東京に帰ってきました。誤解のないようにもう一度言いますが、私は、本当に今でも、沖縄が大好きで、余りにも沖縄に行かない日々が続くと、沖縄病が発症してくるほどです。

勿論住んでいたときも、沖縄の方々を愛して、心を込めて伝道していました。しかし、最後に、「お国の伝道は楽よ」と言われたときに、あ~私は寄留者だったんだ、仮住まいでしかなかったんだと思わずにはおられませんでした。

 アブラハムを始め、旧約聖書の信仰者達は、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(へブル11:13)。と言っています。

 この仮住まいの事実を、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地今のトルコの西半分に住むクリスチャン達にペトロは書いたのです。
 そして、ペトロは最後に、「離散して」と語りました。これは、「ディアスポラ」というギリシャ語です。BC6世紀、ユダヤ人たちは国を失って、今の中近東辺りに離散して行きました。

約束の地を離れて、彼方此方にバラバラに生活するようになったのです。この様な彼らを、人々はディアスポラのユダヤ人と呼ぶようになりました。

この後彼らの一部は今のファレスティナに戻りましたが、多くの民は、その地で暮らすようになったのです。あのパウロも、ディアスポラのユダヤ人です。

しかし、「各地に離散して仮住まいをしている」この言葉によって、ペトロはクリスチャンの本質を言い表したのです。

 それは、第一に、クリスチャン達は、帰るべき故郷を持っているという事です。今は離散して仮住まいをしているけれども、やがて、帰るべき、天の故郷を持っているという事なのです。私達は、クリスチャンは帰るべき天の故郷を持っているという事なのです。

 それは地上の故郷とは違った、未だ見ぬ故郷、天の故郷です。あらゆる災禍から、そして罪から自由にされた、永遠の御国、天国です。私達は、その天の故郷を夢見ながら、この地を仮住まいとして、過ごしていくのです。

しかし、また、私達がたとえ天を故郷としていたとしても、この地に、この世界に仮住まいを得ているとするならば、そこには間違いなく、あなたでなければ果たすことができない使命があるという事なのです。この地上で、労苦しながら、忍耐しながら、果たすべき使命があるのです。
 
私達は、この日本においては、神を知らない99%の人々の間に離散して生きています。それは必ずしも心安らぐことだけではないと思います。色々と誤解されることもあるでしょう。
 
付き合いが悪いと言われ、不利な立場に置かれて行くこともあるかもしれません。しかし、そのような状況下においても、神の愛を、天の故郷を証ししていく、その使命が私達一人一人には与えられているのです。

 そして、その使命を果たすために主は私達一人一人を変え続けて下さるのです。
 
実際に「あんな人は知らない」と、自己保身に走って、イエスとの関係を否定したペトロです。自分がどんなに弱い人間か思い知らされ、涙したペトロですが、そんな彼でありましたが、それにも拘わらず、いやそんな経験をしたペトロであるからこそ、彼は、正に教会の指導者になり、ケファ=岩のような存在になりました。

自分の持っている何物かに頼る事が出来ないことを徹底的に知らされ、主により頼む事が出来る者になったからこそ、彼はこの手紙を書くことができるようになったのです。

私達もそうです。今日は、子供祝福礼拝ですが、丁度小さな子供が、お父さんがいなければ、そして、お母さんがいなければ、生きていくことができないように、私達も又、自分の力で生きていくのではない。自分の力で頑張るのでもない。主が働いて下さいます。主がお育て下さるのです。

 この仮住まいである、この地に、この世界に、あなたでなければ果たす事が出来ない使命があるからこそ、私達は生かされている。
だからこそ、私たちの内に働かれる主の御力を体験させて頂こうではありませんか。

 確かに私達は、この地に離散して仮住まいをしている、ディアスポラの民です。天の故郷を目指して仮住まいしている私達一人一人です。

しかし、あなたでなければ果たす事が出来ない使命がある。そして、そのためにこそ、救いへと選ばれているのですから、この地上では、痛み、悩み苦しむこともある。

しかし、主は私たちの労苦を知っていて下さいます。試みを通してでも、私達を養い育てて下さるのですから、あなたでなければ、果たす事が出来ない使命をこの地で果たしていくものでありたいと思います。

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