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2024年10月27日「アメージンググレイス」

アメージンググレイス

日付
説教
小堀尚美信徒説教者
聖書
ヨハネによる福音書 9章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

生まれつきの盲人をいやす
1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 9章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

「アメージング グレイス」
旧約聖書 : 詩編146:8-9
新約聖書 : ヨハネによる福音書9:1-12

今日は、新約聖書のヨハネによる福音書にある「イエスの七つのしるし」の6つ目について、ご一緒に耳を傾けてまいりたいと思います。
Ⅰ. 神の業がこの人に現れるために
今日の個所は、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」(9:1) で始まります。

直前の8章を見ますと、イエスは、わたしは父なる神のもとから来たのだと言って、ユダヤ人指導者たちの怒りを買い、石打ちにされそうになり、危険を逃れて、道を急ぐ途中でした。

ご自分の命が危ぶまれる中、「イエスは通りすがりに」、道端に座って物乞いをしている、埃まみれの「生まれつき目の見えない人を見かけられた」(9:1)のです。

命の危険から逃れている時に、私達には、できるだろうか。この時点で、既にイエスは、私達とはまるで違う。イエスの憐れみの深さ、大きさは、私達の想像を遥かに超えています。

イエスがこの人に、眼差しを注がれたのを見た弟子たちは、こう尋ねます。
「ラビ、(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(9:2)

当時のユダヤには、肉体の不幸や病気は、罪の報いであるという昔ながらの考えがありました。日本でも、前世の行いが悪かったのだとか、先祖の供養が足りないとか、そこまでいかなくても、何か隠された罪があるのではないか等々、病気や障がいを持つ人に対する偏見は、未だにあるのではないかと思います。
私達家族は、東北に住んでいたことがありますが、今でも山の方に行くと、障がいのある家族が、家の奥に隠されて暮らしている所もあるのだと、地元の人から教えられました。

病気や障がいを担いながら生きること、それ自体が苦労を伴うことなのに、偏見や、勘ぐるような視線を受け、社会の隅に追いやられそうになるのを、北風に立ち向かって生きていく。そんな厳しさがあるのかもしれません。

この人も、目の前で、弟子達にこう言われたのです。
「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(9:2)
柔らかい心を持つ生身の一人の人として、見られていないのは、明らかです。

しかし、そんな弟子達に、イエスはお答えになったのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)
この言葉だけでも、癒し、解放ではないでしょうか。本人が悪いのだろう、親が悪いのだろうという冷たい視線、本人や親が負わされる罪責感に対して、イエスは「そうではない」と言われるのです。「本人の罪でもなく、両親の罪でもない。」このイエスの言葉で、どれだけ多くの人が、精神的な重荷から解放されることでしょう。

更にイエスは続けます。「神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)
本人や両親の罪でないどころか、イエスから見たら、それは、「神の業がこの人に現れるため」だと言うのです。
「神の業が」、他の誰でもない「神の業が」、この人に現れるためなのだ、「神は、あなたに対して、既に御計画を持っておられるのだよ。」と、これが、イエス・キリストの真実な言葉なのです。

目が見えずに生まれてきた、この人の存在、ここに、神の恵みと救いの業が現れる、神の栄光が現れるのだ、と。
私達の視線は、過去から未来へ、自分の過ちを探すことから、神を仰ぐことへ、神の御計画へと、向けられていくのではないでしょうか。

Ⅱ. アメージング・グレイス
さて、旧約の時代から、目の見えない人を見えるようにする、これができるのは、ただ神ご自身のみ、それは正に、神の御業でした。

例えば、出4:11には、こう書かれています。
「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」
又、詩146:8には、「主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。」とあります。

けれども、旧約の時代には、そのような奇跡は行われませんでした。つまり、見えない人の目を開けるのは、「来るべきメシアの業であり、メシアのしるし」となっていたのです。
もしも、見えない人の目を開けるという、神にしかできない業を行なう人が現れたなら、その人こそ、約束のメシア、救い主であるという証明です。

そして実際、新約聖書には、盲人の開眼の奇跡が、8ケ所も出てきます。そして、その全てが、イエスによってのみ行われているのです。

ある日、投獄されていた洗礼者「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞」きました。イエスが、様々な奇跡を行なっていることを、耳にしたのです。

そこで、洗礼者ヨハネは、「自分の弟子たちを送って、尋ねさせた」のです。
「来るべき方は、(約束のメシアは)、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
すると、「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』」(マタイ11:2-6)

つまり、「これらのしるしが答えだ。あなたが考えている通り、私が来たるべきメシアだ。」というイエスの答えだったのです。

旧約聖書に精通している洗礼者ヨハネなら、当然、メシアのしるしは知っていたでしょう。イエスは、御自分こそが、父なる神から遣わされた約束の救い主であることが人々に分るように、メシアのしるしとなる奇跡を、次々と行っておられたのです。

さて、6節をご覧下さい。
「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」
唾には、癒しの効果があると信じられていましたが、イエスは唾で土をこね、わざわざ泥にして、迷信にないイエス独自の方法で、この人の目に塗り、積極的にこの人に関わられたのです。

「そして、「シロアム-『遣わされた者』という意味-の池に行って洗いなさい」と言われた。
イエスはこの人に、受け身ではなく、イエスの言葉を信じ、自分のものとして受け止め、イエスの言葉に従って、実際に行って、洗うようにと言われたのです。
「そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」 のです!

最初、この人には、自分に眼差しを注いでおられるイエスが見えていませんでした。ですから、自分からイエスに求めることすら、できなかった。唯々、イエスの大いなる憐れみによって、この人は見えるようになったのです。

生まれつき目の見えない人(9:1、2)、これは、誰を表しているのでしょうか。これは、私達人間の姿を表しています。私達は、生まれつき霊的に盲目で、神が分らない。神がどなたであるか分からないのです。そして、そんな自分の目を、自分で開けることもできません。
神が分らない。私に眼差しを注いでおられるイエスが見えない。だから、イエスに求めることすらできない。霊的に無力な、生まれながらの私達人間の姿です。

「八百万の神々」と言われます。「多種多様な数多くの神々」という意味ですが、正確に言うならば、神々が八百万なのではなく、神を求めている人間が、八百万なのです。人間が、神を探し求め、神とはこのような方だろうと想像して作り出す神々が、人の数だけ居るのです。

世界には、それこそ多種多様な数多くの民族がいますが、「神」という言葉を持たない民族はありません。どんなに未開の部族であっても、「神」を拝んでいるのです。
人類が、「神」という言葉を共有し、八百万の神々が、世界中に居るのはなぜでしょうか。

聖書はこう語ります。
天地創造の父なる神が、愛と喜びをもって私達人間を創造された。神を愛し、神に従って、神と共に歩む者として、創造された。
だから人間は、神を求め、永遠を想わざるを得ないのです。
けれども人間は、神に背き、神から離れてしまったので、もはや神を神として知ること、神を認知することができなくなってしまった。
だから、思い思いの神々を、八百万の神々を造り出してしまうのです。

そして、そんな私達に、神様が救いの手を差し伸べて、神の独り子イエスを遣わし、この方によって、神が御自身を表して下さった。私達が、神に出会うことができるように、神の元に帰ることができるようにして下さったのです。

イエスが分った。イエスが、父なる神から遣わされた救い主、キリストであることが分った。  
これは、私達を憐れみ、私達の心の目を開いて下さった神の愛と恵みによるのです。
「人の子は、(イエスは)失われたものを捜して救うために来たので」す。(ルカ19:10)

見えるようになったこの人の姿は、物乞いをしていた人と同じ人物だとは思えないほどの、見違えるような姿でした。

「似ているだけだ」と言う人に対して、彼は、「わたしがそうなのです」(9:9)と答えました。

「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と聞かれると、
「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」(9:10、11)
と、イエスがして下さったことを、素直にそのまま話しました。

17節で、今度は、イエスに敵対するファリサイ派の人々に、「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」と聞かれると、「あの方は預言者です」と真直ぐに答えました。(9:17)

更に、イエスを罪人として訴えたいユダヤ人達に対して、彼はこう反論します。
「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」(9:32、33)

 イエスを、「神のもとから来られた方」と言ったために、見えるようになったこの人は、会堂の外に追いやられてしまったのですが、イエスはそのことをお聞きになると、自ら来て、彼に出会って下さったのです。(9:35) 

そして、見えるようになったこの人に、「あなたは人の子を信じるか」と問われました。
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 と、彼は答えます。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 
すると彼は、「主よ、信じます。」と言って、ひざまずいたのです。(9:35-38)

私達がイエスについて語ろうとする時、あるいは信仰告白や洗礼を受けようとする時、私達もまた、信仰が否定されるような言葉や試みに会うことがあるかもしれません。

けれども、イエスに信頼して見えるようになったこの人に、ユダヤ人指導者たちが、イエスを否定させようとした時、イエスは自ら、彼のもとに来て、「あなたは人の子を信じるか。」「主よ、信じます。」 と、信仰の告白へと導いて下さったのです。
イエスは、私達の信仰をも守り、導いてくださいます。

私達に御目を留め、イエスが父なる神から遣わされた救い主であることが分かるように、私達の心の目を開き、信仰を育てて下さるのは、他でもない、主イエス・キリスト御自身なのです。
私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、捜し求め、救い出して下さる。この驚くばかりの恵み、私達の主イエス・キリストに信頼して、今週も歩んでまいりましょう。

< ヨハネによる福音書9:1-12 >
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム-『遣わされた者』という意味-の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

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