世の終わりまで、あなた方と共にいる
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- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 28章16節~20節
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。 17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章16節~20節
2024年10月13日(日) 礼拝メッセージ
「世の終わりまで、あなた方と共にいる
歴代誌下26:22-23
マタイ28:16-20
I.あなたにとってのガリラヤの山
マタイは、福音書の最後を、イエスが弟子達に与えられた、大宣教命令で締め括ります。エルサレムは、イエスの復活によって、大混乱に陥りましたが、ガリラヤであなたがたに出会うことになると言われた、ガリラヤでは、イエスが弟子達を、ご自身の下に再び集めて、大宣教命令を与えられて、弟子達を全世界へと派遣されて行くのです。
ガリラヤで、大宣教命令を受けた弟子達は、ペンテコステの日に、聖霊を受けて、いよいよそこから世界宣教へと遣わされて行くのです。
今日の御言葉は、マタイ独特の記事です。例えば、ヨハネは、甦られたその日の夕方、トマスを除いた弟子達に会われています(ヨハネ20:19-23)。
時の前後は定かではありませんが、その日エマオに旅する二人の弟子にもイエスはご自身を現されているのです(ルカ24:13-15)。
更にその一週間後、トマスを含めた弟子達にイエスは再会されているのです(ヨハネ20:26-29)。
しかし、マタイはこのような出来事には全く触れてはいません。復活後にエルサレムで起こった出来事は一切省いて、弟子達に対する大宣教命令に焦点を当てているのです。
イエスは嘗て、ガリラヤの湖畔で、弟子達を招かれました。そして、ご自身の復活後、再びガリラヤで、弟子達の使命を再確認させるのです。
それは、復活後のイエスは、それ以前のイエスとは違い、神の御国の福音も、十字架と復活以前といこうでは、全く違うからです。
基本的な流れは次のようになります。弟子達はイエスの指示に従って、ガリラヤの山に登ります(ver16)。するとイエスが現れる訳ですが、ある者は礼拝し、ある者は、疑います(ver17)。
そのような弟子達に、イエスはご自身が一切の権威を与えられているので(ver18)、全ての民を私の弟子にして、洗礼を授けるようにと命じられるのです(ver19)。
そしてイエスの教えを守るように命じられて(ver20a)、最後には、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (ver20b)と約束をされるのです。
「さて、十一人の弟子達はガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(ver16)。さてという接続詞で始まりますが、これは、「しかし」という言葉です。
今迄は空っぽのお墓にいついて、祭司長、律法学者、そして兵士がどのように対処をしてきたのかをマタイは、書生きてきました。イエスの復活を信じない人々が、如何にして、その話を覆そうとしてきたのかがその話の中心でした。
しかし、マタイは話を一転させて、復活されたイエスを信じる人々が、今度は、どのように、復活のイエスを宣べ伝えていくのか、その宣教の使命について、フォーカスしていくのです。
ガリラヤとは恐らく、「ガリラヤ湖付近」を指す言葉です。「指示しておかれた山」とは、伝統的には、イエスの山上の変貌が起こった、タボル山だと言われています。
確かにその可能性はありますが、大切なことは、イエスが指示しておいた山という事です。その点が重要なので、地理的にどの山だったのか、それが問題ではありません。
山とは、聖書では神から教えや啓示を受ける場所です。この時も又、弟子達は復活のイエスから、宣教への再びの召命を受けたのです。もし、この山が、特定されたらどうでしょうか。
おそらく、クリスチャン達は、直ぐにその山に、世界宣教センターを造ったと思います。
そして、正にその山自体が、神聖化されてしまうのです。丁度、若し原典である、十戒の板が存在すれば、神の指で刻まれたと言われる十戒の板に人間が思わず、手を合わせてしまうのと同じかもしれません。
大切なことは、私達一人一人にとって、その山は何処なのかという事です。正に世界宣教の拠点は私達一人一人が神によって、召されたその場所にこそあるのです。
あなたが神によって、召された場所。それこそが、あなたにとってのガリラヤの山となるのです。あなたにとってのガリラヤの山は何処でしょうか。
私にとって、最初のガリラヤの山、それは、あのハドソンテイラー三世の集会で、招きがあったときに、私がここにおります。私をお遣わしください。と立ち上がったあの22歳の春でした。
しかし私にはもう一つ、ガリラヤの山があるのです。それは、36歳の初夏の出来事です。
沖縄から体調を崩して、心身共にボロボロになって帰ってきた、私をある一人の大教会の牧
師が拾って下さった、私にもう一回立ち上がるチャンスを与えて下さった。
教会員が300名もいようかという大教会でしたが、その早天祈祷会、主任牧師を入れても僅か数名の集いで、本当に久しぶりに短い説教をさせて頂いた。
私は涙が止まりませんでした。主がもう一回私を赦して立ち上がらせて下さり、用いようとして下さっている。
あの小さな部屋の早天祈祷会こそが、私にとってのもう一つの、ガリラヤの山でした。
あなたにとって、ガリラヤの山とはどこでしょうか。あなたを、クリスチャンとして召して下さった主のガリラヤの山とはどこでしょうか。
II.信じること。疑うこと。
「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(ver17)。
甦りのイエスは、真の神であり、礼拝されるに実に相応しいお方です。この界隈には、キニク派という哲学者たちがいたそうです。他にもラビを自称する人々は、この山に沢山いました。
しかし、イエスは復活された神であり、救い主であり、何よりも、礼拝されるべきお方なのです。
しかし、その中に「疑う者もいた」(ver17)。弟子達の中に疑う者がいたという事が、信じられないということで、恐らくは周りに既にイエスの復活を疑う群衆がいたのではないかとか、遠く離れていたので、イエスだと分からなかったという人もいます。また、この時の出来事を述べたのではなくて、復活後の弟子達の姿を総括した出来事だという人もいます。
しかし、これは間違いなく弟子達が疑ったという事なのです。しかし、又その疑った理由をいちいち詮索する、そのこと自体にはあり意味
ありません。イエスを信じることと、イエスを疑うことは、ある意味コインの表裏です。一度復活のイエスに出会ったら、その復活を確信したら、右肩上がりに、もう二度と疑うはずはないと決めてかかるのは、信仰の本質も、人間の本質も、理解できていな人です。
礼拝と疑いが共存している。それが、私達一人一人です。私達はいつも右肩上がりに、一直線に、イエスを信じている。イエスに従っている。そのような事は恐らくはないと思います。
ある時は、信じ、ある時は疑う。そのような事柄が繰り返されて行く。それが、私達の人生です。
弟子達がイエスの事を本当に信じ、信頼することができるようになったのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれて以降のことなのです。
ある時は、信じ、ある時は疑う。そのような事柄が繰り返されて行く。それが、私達の人生なのです。
III.世の終わりまで、あなた方と共にいる
「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(ver18)。
ユダヤ人は、「宇宙」とか「世界」を表す単語を持っていないのです。彼らはそれを、「天と地」という言葉で表しました。この両極端な言葉で彼らはこの世界を表したのです。
「天と地を創造する」、「善悪を知る」、「出入りすることを知らない」という正反対の言葉をつなぎ合わせることによって、一つの単語をより生き生きと、一切合切と言いましょうか、ありとあらゆる、という意味を表したのです。
ですから「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(ver18)。これは、考えられる限りの、いいえ、私達が考えられないことも含めて、
ありとあらゆる権威をイエスはお持ちなのだ。そのことを意味しています。教えの権威、赦しの権威、罪を赦す権威、悪来を追い出す権威を超えた、この世界の全てをご自身の御手の内に納められる権威です。こうした権威をイエスはご自身の内に、持っておられるのです。
しかし、イエスの素晴らしい所は、私にはこのような素晴らしい権威があるのだから、だから我に従えとは言われなかったところにあります。
その権威の故にイエスは言われました。Ver19-20は、一つの文章を構成しています。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (ver19-20)
ここでイエスはご自身の権威の故に、三つの事柄を語られました。それは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい・彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・そして、教えなさい」(ver19)。ということです。これは、一言でいえば、私達一人一人が神との生き生きとした交わりの中に生かされていくということなのです。
神との生き生きとした交わりの中で、神に従い、神と共に歩み、一回だけの人生本当の意味で幸福になる。そんな人生に私一人一人が、主の弟子となって、洗礼を受けて、主の教えを学んでいくときに、入れられていくのです。
そして、最後にイエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(ver20)。と約束して下さいました。
神が私達と共にいて下さる。これは、私達の人生の全てです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(ver20)。「いつも」とは、「全ての日々」です。
元旦から大晦日迄、否、生まれてから死ぬまで、否生まれる前から、私達が母の胎の内に形作られる前から、世の終わりまで、永遠に主が私達と共にいて下さる。
神が共にいて下さる。マタイは、インマヌエル=神が共にいて下さるという預言で始まりました(1:23)。そして、イエスが世の終わりまで共にいて下さるという約束終わっているのです。
信仰生活は、クリスチャンライフは、勿論宣教も自分の力でなすのではありません。共にいて下さる神と共に、歩んで行くものなのです。
いつも、全ての日々に於いて、あなたの困難の中に、迫害の中に、痛みの中に、苦しみの中に、悩みの中に、困難の中に、主は共にいて下さる。だから、あなたは一人ではない。世の終わりまで、主は共にいて下さるのです。あなたは、一人ではない、私達は独りぼっちではない。
あのヨセフが兄弟達に憎まれて、命辛々エジプトに売り飛ばされた時に、ポティファルの家に転がり込んだ。
やっとそこで落ち着いたと思ったら、ポティファルの奥さんを誘惑したと嫌疑をかけられ、牢屋に放り込まれてしまいます。
そこで、王様ファラオの夢を解き明かすのですが、先に獄屋から解放されることになったファラオの給仕役の長に自分も解放されるようにファラオに頼んでくれと頼む訳ですが、給仕役の長は、すっかりヨセフのことを忘れてしまうのです。
しかし、最後に彼はもう一度ファラオの夢を解き明かすことによって、ファラオの目に留まり、
獄屋から解放され、エジプトの宰相迄上り詰め、飢饉の故にイスラエルからエジプトにやってきた彼の父ヤコブと兄弟達を救うことになるのです。
そして、聖書は語るのです。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(出エジプト39:2)。
「監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」(出エジプト39:23)。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(ver20)。
共にいて下さる主共に歩んで行こうではありませんか。
