2024年10月06日「復活の主の証人となる」

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復活の主の証人となる

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章1節~15節

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聖句のアイコン聖書の言葉

復活する
1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
番兵、報告する
11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、 13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

「復活の主の証人として」
イザヤ書54:1-10
マタイ28:1-15
I.あなたにとってのガリラヤ
使徒パウロは、イエスの復活の25年位後にこの様に記しています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(一コリ15:3-8)。
勿論四つの福音書に全てイエスの復活の出来事は、出てきます。ですから、イエスの復活を、歴史的に疑うことはできません。しかし、夫々の福音書が、夫々の書き方をしているので、イエスの復活についての記述は細かな所で違いが生じている事もまた事実です。
 
その事の故にイエスの復活を疑う人々もいます。しかし、夫々が畏れや驚きの中で書かれたのがこの復活の記事です。

又夫々の著者が復活の出来事の様々な部分を選択して書いていることも又事実です。更には様々な伝承のプロセスの中で、解釈や、ある意図をもって、編纂が加えられている事も否定できません。

ですから、単純に四つの福音に記されている、復活の記事の辻褄を併せてもあまり意味はないのです。しかし、マタイの記事を読む時に、私達は、イエスの復活の真実性を決して疑うことはできないのです。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(ver1)。
 
この日は、一見いつもと変わらない、日が昇りました。しかし、霊的には、決してそうではありません。
 
死が歴史の中で、確かに、命によって打ち破られた、イエスの復活の朝が明けたのです。この時代のユダやの社会では、女性が証人になったとしても、それを有効な事柄と認めてはいませんでした。
 
しかし、神は違います。皆主に在って一つ、ユダヤ人もギリシャ人も、男も女も、老いも若きも、皆主の証人として用いられるのです。そして、この女性達は、イエスの復活を男性の使徒達に伝えるという橋渡しとして用いられていきます。
 「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(ver2)。

 すると何とまた地震が起こり、天使が降りて来て、あの封印をしていた大きな石を転がして、その封印した筈の石の上に座っているのです。
 これは明らかに、イエスの死と葬りが天からの超自然的な力で打ち破られたということです。
 
そして石の上に座った。これは神の死に対する勝利の圧倒的権威が行われたという事です。しかもその、御使いの姿は、人間が直視できないような威厳と恐れ、そして神々しさに満ちていました(ver3)。

 しかもそれは、番兵達が、恐ろしさのあまり、死人のようになって、倒れてしまうような出来事でした(ver4)。復活のイエスは、もうそこにはおられないのに、番兵達は死人のように、その場に倒れざるを得なかったのです。「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが」(ver5)。

 この女達は、入り口に置かれた石を誰が転がしてくれるのかという事を心配して来たのです。この女性達は、番兵がいたことも、彼等に御使いが近づいたことも知りませんでした。
 
墓に来てみると、彼女達が考えてもいなかったような出来事が展開していくのです。何と石が転がしてあって、その上に御使いが座っているのです。

恐れることはない。「その恐れを止めなさい」という意味です。だって、彼女達は、死んだはずのイエスの死体に香油を塗るために来たのです。イエスが甦るなんて言うことは、考えてもいませんでした。 「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(ver6)。
 
「ここ」とは、墓の中です。「おられない。」とは、嘗てはともかく、今はここにはいないという事です。「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(ver6)。 イエスの復活は、マタイだけでも、7回以上予告されてきた事柄でした(16:21,17:23,20:19etc)。

 その予告の通りにイエスは、確かに復活されたのです。これは、「甦られた」という意味で、神の御力によって、甦られた、神の受動形と言われている事柄です。
 「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(ver6)。彼女達は、墓が空であることを、その墓の中を見ることによって、いやイエスの復活を、墓の中を見ることによって、確認したのです。
 「遺体が置いてあった」というのは、未完了形ですからずっと置いてあった、いや置いてあるはずの遺体がなくなってしまったのです。
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(ver7-8)。
  
『あの方は死者の中から復活された。』これは、イエスによって明らかに死の世界が征服されたことを意味しているのです。「そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』と御使いは告げます。
 
そして、これは、弟子達にイエスの復活を知らせる為に、走っていった女達の行く手で出会ったイエスの言葉。 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(ver10)。 ガリラヤでイエスに出会うことが二回繰り返されています。

「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(ver9)。
 
私も本当に復活のイエスにお会いしたいです。女達が、思わずイエスの足を抱き、その前に平伏したという意味が本当に良く分かります。
でもなぜ、ガリラヤなのでしょうか。何故エルサレムではなくて、片田舎のガリラヤなのでしょうか。
 それには三つの意味があります。第一は、イエスの復活によって、ガリラヤから始まったイエスの伝道の総決算となるということです。
 そして、第二に、そこは、弟子達の召命の原点でした(4:18-22)。彼らの特にイエスを一時的に見捨ててしまった彼らの召命を改めてイエスは問われたのです。
 
そして、最後にガリラヤは異邦人世界を象徴していますから(4:15,12:18-21)。これから、福
音がいよいよ、異邦人に宣教されて行くことをイエスは、ここで明確に語られたのです。

 神はいつも私達を、ガリラヤへと導かれます。あなたが福音を伝えなければならないあなたの、ガリラヤとは何処でしょうか。あなたの信仰の原点とも呼ぶことができる、あなたの、ガリラヤとは、何処でしょうか。
 そこでイエスは、もう一度、あなたの信仰を確かなものとされて、あなたの周りの人々に、福音を伝えようとされているのです。

II. 復活の主の証人として
イエスが復活されたという知らせは、番兵によって、いち早く当局者達に知らされました。
当局者達は、集まって、協議をして、番兵達に多額のお金を与えて買収して、夜の間に来て、弟子達がきて盗んだと、嘘を流布するように言ったのです(ver12-13)。そうして、総督の耳に入っても、うまく言っておくというのです(ver14)。「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」(ver15)。
 
そして、このような嘘は、今の時代も続いているのです。確かに言えること。当局者達は手立てを尽くして探しても、イエスの遺体を探し出す事が出来なかったのです。だから、こんな見え透いた嘘でもつくしかなかったのです。

現在でも、イエスの復活を否定する幾つかの説があります。先ず有名なのは、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」(ver13)。盗難説です。
 大体兵士達は寝ている訳ですから、誰がきて盗んだのかまでは分かるはずがないのです。しかも封印までして、絶対に死体を盗まれないようにしていた、お墓から、寝込んだが故に死体を盗まれたら、それこそ、番兵が死刑です。
死刑は免れたとしても、家族諸共ユダヤ社会から、永久追放です。そして、この盗難説には、三種類あります。第一に、当局者達が、来て盗む。これは、イエスに一番復活して欲しくなかった訳ですから、論理的に成り立ちません。

第二に、墓泥棒が持って行った。しかし、当時のローマの兵隊達の目を盗んで、イエスの死体を盗み出すのは、不可能です。ローマの兵隊達も全力で戦いますから、仮に盗まれたとしても、墓泥棒の仕業です。と言えたはずです。

 最後が弟子達です。彼らが死体を盗むことは、論理的には可能です。全てのタイミングがうまく重なればできないことではありません。
 しかし、復活の主に出会った後の弟子達の大きな変化、殉教をも恐れない、福音宣教、そして、殉教の死。
 一体、死体の為に殉教する人がいるでしょうか。しかも、死体を盗んでおいて、復活の福音を宣教する。
これは、イエスから三年間、訓練を受けた、弟子達の倫理基準からするならばあり得ないことです。
 
しかも、当局者達は、弟子達に対して幾らでも反論する事が出来たと思います。ですから、何れにしても、窃盗説は成り立たないのです。
しかし、こんな矛盾に満ちた説でも言い広めなければならないほどに、彼らは追い込まれていた、イエスの遺体を見つける事が出来なかったのです。

 次に、第二に仮死説です。十字架で死に切れていなかったイエスが、墓の冷たい空気に触れて息を吹き返したというのです。
しかし、半死半生の人には、その脛を折って止めを刺す習慣の中で、「兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ19:31-34)。イエスは完全に死んでいたので、足の骨を折られて、とどめを刺されるという事はありませんでした。
 
よしんば生きていたとしても、瀕死のイエスが、内側から、一説には、2tもあろうかという墓の石を転がすのは、無理な話なのです。
 しかも次に、外の番兵をやつけなければならないので、この説はありえないことです。
 そして最後が幻覚説です。弟子達がイエスの復活を切望していたので、幻を見たというのです。
しかし、これも矛盾に満ちています。単なる幻覚ならば、当局者達は、直ぐに反論できました。更には弟子達が来て盗んだなどという、偽りの嘘をわざわざ流す必要はありませんでした。
 
そして、矢張り最大の難点は、弟子達の大きな変化です。復活の主に出会った後の弟子達の大きな変化、殉教をも恐れない、福音宣教、そして、殉教の死。
 
これは、幻覚を見たぐらいでは説明がつかないのです。ですから、イエスが復活した。これが、全ての答えです。

 イエスの復活は、イエスが神の御子であることの証です。世界の四台聖人、釈迦、ソクラテス、孔子、彼らは皆死に、甦りませんでした。しかし、イエスは確かにこの歴史の中に甦られました。

そして、イエスの復活は私達の救いが確かなものであることを表しています。イエスが罪を背負い、死に打ちかたれて甦られたからこそ、私達もまた、罪許されイエスにあって、死に打ち勝ち、永遠の命に甦る事が出来るのです。
 最後に、イエスの復活は私達の希望です。イエスは、死者の初穂とし甦られました。イエスを信じる者は、死んでも生きるのです。イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」私は甦りであり、命である」(ヨハネ11:25-26)。

 この復活の希望があるからこそ、私たちは、主の復活を、永遠の命の希望を伝えていくことができるのです。

2世紀のローマの哲学者ケルソスは、イエスが神の御子であることを否定して、復活は弟子達が捏造したものなのだと批判しました。

 これに対して、教父であった、オリゲネスは、「ケルソス反駁論」という本を著し、彼に批判に対して、一つ、一つ答えました。
 
そして、現代人が示す復活に対する疑義は、彼らの論争の中で、言い尽くされている。論じ尽くされているのです。
 
 イエスの復活は、議論されるべき事柄ではありません。イエスの復活は、証言されるべき事柄なのです。
 
イエスの復活は、宣べ伝えられるべき事柄。宣教されるべき事柄です。それ以上でも、それ以下でもありません。

 あなたも、復活の主の証人として、あなたのガリラヤで主はあなたに出会って下さったのですから、力強く、復活の主の証人となっていこうではありませんか。

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