2024年09月15日「あなたの救い主イエス」

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あなたの救い主イエス

日付
説教
小堀尚美信徒説教者
聖書
ヨハネによる福音書 6章1節~15節

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五千人に食べ物を与える

1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章1節~15節

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「あなたの救い主イエス」

 ヨハネによる福音書6:1-15

今日は、新約聖書のヨハネによる福音書に書かれている「イエスがなさった七つの奇跡」の第4番目について、聖書に耳を傾けてまいりたいと思います。
この奇跡は、「五千人の給食」とか、「二匹の魚と五つのパン」と呼ばれ、広くキリスト教会で愛されています。魚がデザイン化されたアクセサリーや、籠に入ったパンと魚の絵などでも親しまれています。

新約聖書を開きますと、最初に、四つの福音書が並んでいます。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書と、著者の名前が付いています。
そして、これらの福音書には、イエス・キリストの誕生から、十字架、復活、昇天に至るまでの経緯と、イエスが語られた神の国についての教えや、イエスが神御自身であることを証明する力ある奇跡などが記されています。

この四つの福音書に共通して書かれている最も重要な出来事が、イエスの十字架と復活ですが、今日、これから聞きます「五千人の給食」も、四つの福音書が筆を揃えているものです(マタイ14:13-21、マルコ6:30-44、ルカ9:10-17)。
この奇跡は、男だけで五千人、女性や子供も含めると、1万人もの人達の前で行われた奇跡で、最も多くの証人を伴う奇跡として、たいへん心に残るものです。

イエスはその生涯の約3年半に亘って、神の国を宣べ伝えましたが、今日の出来事は、丁度、イエスの宣教の働きの折り返し地点の頃にあたります。
イエスの存在が人々に知られ、その力ある言葉と行い、深い憐れみの故に、人気も絶頂期を迎えた頃でした。

実際、マルコによる福音書には、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」(マルコ6:31)とありますし、洗礼者ヨハネが、ヘロデ王の迫害によって殺されたので(マルコ6:14-29)、イエスと弟子たちも、ヘロデの迫害の手を逃れ、しばらく休息と祈りの時を持つ必要があったのです。
こういうわけで、「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」(6:1)のですが、イエスと弟子たちが出かけていくのを見て、多くの人々が、方々の町々から一斉に駆けつけて、なんと、先に目的地に着いて、イエスと弟子たちを待ち受けていたのです。

イエスは舟から上がり、この大勢の群衆を見ました。イエスの目には、彼らは飼い主のいない羊のように映ったのです(マルコ6:34)。
守り導く人がいない羊。彷徨い、倒れ、傷つき、飢え、傷んでいる羊のような群衆を見て、イエスの心は、憐れみで一杯になった。思わず溜息が漏れるほどの、深い憐れみに動かされて、休息を取ることも忘れて、また神の国について教え始められたのです。

飢え渇いた羊が、夢中になって青草をむしゃむしゃ食べるように、群衆は、夢中になってイエスの言葉に聞き入りました。神の憐れみについて、神の聖さについて、神の裁きについて、神の赦しについて…群衆の飢え渇いた心に、イエスの言葉が、神の恵みが染み渡ったのです。

こうして時がだいぶ経ち、日が傾きかけた頃、イエスは言われました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6:5)

イエスは、群衆の心と魂の必要だけでなく、空腹という身体の必要にも応えようとされました。イエス御自身が働きに疲れ、空腹を覚え、渇きに苦しまれたからです。主イエスは、全人格的に、トータルに私達を見ておられるのです。
けれども、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6:5)というこの問いは、実は、弟子達に対する、主イエスの信仰のテストでもありました。
「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」(6:6)

私達キリスト者は、たびたび信仰のテストを受けることがあります。
「はい、これから試験を始めます」という合図もなく、試験用紙も配られない、試験会場に通されることすらなく、日常生活の只中で行われることもあるので、今、自分が、主イエスから信仰のテストを受けているのだと気づかないこともあります。
けれどもイエスは、「御自分では何をしようとしているか知っておられた」(6:6)、試練の答えと解決を、イエスは初めから用意しながら、私達に問いかけられるのです。

イエスと弟子たちの周りには、男だけで五千人(6:10)、女性と子供を入れたら一万人以上、武道館並みの群衆がいたのです。解決不可能と思われる課題が、今、イエスから弟子達に出されたのです。もし私達がその場に居たら、イエスになんとお答えするでしょうか。

フィリポの答えは、こうです。
「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」(6:7)
二百デナリオンは、二百日分の給与です。二百日分の給与を支払ったとしても、この群衆に間に合う分のパンは買えないでしょう。
すぐに計算して、フィリポは数字を示して、イエスに答えます。

アンデレは、こう言います。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にもたたないでしょう。」(6:9)

「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」(マルコ6:38)とイエスに言われて、弟子達が確かめに行ったところ、お弁当を持っていた一人の少年が見つかったのです。

「少年」、これは、「一人の小さな男の子」という意味です。
彼が持っていた「大麦のパン
は、貧しい人々のための安いパンで、馬やロバに相応しいとされていたものです。「魚二匹
も、小さな干し魚で、ガリラヤ湖周辺でよく見かける、ごくありふれた魚でした。

誰もが見上げる、ゴリヤテのような大男が、大きな籠から溢れるばかりのパンを両手に抱えていたら、この男は、何か妙案を思いついてくれるだろうか? この男は、近くの町に、人も驚くような人脈を持ってはいないだろうか? と、秘かに期待もできたかもしれません。
けれども、弟子たちの側にちょこんと立っていたのは、小さな男の子一人で、食べ物は、その子が持っていた貧しく安いパンと小さな干し魚のみ、およそ何も期待できない材料ばかりでした。
「これでは、何の役にもたたないでしょう。」(6:9)

弟子たちは、すっかり忘れていたのです。イエスが自分たちと共に居られることを。水をぶどう酒に変え、死にかけていた役人の息子を癒し、38年間、歩けなかった人を立たしめた、神の力に満ちたイエスが、今まさに、自分達の傍らにおられることを忘れていた、イエスに期待することを、すっかり忘れていたのです。

神様のなさる事は、いつも意外で、私達の想定外です。主イエスがお生まれになったのも王宮ではなく、家畜小屋でした。まさか神の御子、救い主が、飼葉桶に眠っておられるなどと、誰が考えたでしょうか。

弟子達の横に、小さな男の子が一人、二匹の魚と五つのパンを持って立っている。目を上げると、彼らの前には、一面の草原が広がり、一万人以上の群衆がお腹を空かせている。
人間の発想や力では、最早どうすることもできない、手も足も出ない。人間の無力が、すべての人の目に明らかに認められた、まさにそ時、その場所に、神の業が現わされるのです。  
疑いようもなく、これは神による業なのだと、神の力が完全に現れるために、取るに足りないもの、小さなものが用いられるのです。

自分という存在の小ささ、弱さ、乏しさを見て慄き、恐れる時、傍らにおられるイエスに助けを祈るのです。私達を主の御手の中に置き、祝福して、神の業が現わされるために用いて下さる神様に、期待して歩みたいと思います。

さてイエスは、「人々を座らせなさい」(10)と言って、群衆を座らせました。「そこには草がたくさん生えていた」とあります。
マタイには、「女と子供を別にして、男が五千人」(マタイ14:21)、マルコには、「人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」(マルコ6:40)と書かれています。

この出来事が夢や幻ではないことが、群衆の人数や弟子たちの行動、青草の広がる風景によって、詳細に書かれています。
弟子たちは、自らの足で人々の間を歩き周り、百人、五十人ずつのグループを作り、過越の祭りが間近に近づいていた(4)、3月下旬から4月上旬の、柔らかい青草の上に座らせたのです。

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(10)、「魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(11)。

貧しい僅かなパンを、イエスが手に取り、全能の御力によって、増し加えてくださったのです。
「光あれ」(創世記1:1)と言って、光を創造された神、「地は草を芽生えさせよ」(創世記1:11)と言って、植物を創造された神は、大麦のパンをも造り、増し加えることができるのです。

弟子達は、イエスからパンを受け取っては配り、受け取っては配りました(マルコ6:41)。イエスの力ある業を、何度も繰り返して、その目で見て、その手で受け取って、その足で配って回って、体験し続けた、確認し続けたのです。
そして、群衆は、「満腹した」(12)。グーグーなっていたお腹が満たされた、腹八分目ではなく、満腹した、十二分に食べたのです。
実に一万人もの人々が、イエスの奇跡を見て、味わった、体験した、幸せを満喫したのです。

更にイエスは、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6:12)と言われます。
弟子たちが集めてみると、人々が満腹して、「なお余ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(6:13)のです。

この奇跡は、イエスから弟子たちに出された信仰のテストとして始まりました。
思うような答えを出せずにいた弟子たちは、イエスの言葉に従い、行い続けながら、イエスの力を体験し、イエス御自身こそが、この問いの答えであることを知ったのです。

群衆にパンを配り終えて、疲労していた弟子たちが、イエスに言われて余ったパンを集めると、「十二の籠がいっぱいになった
(6:13)。
十二弟子の一人一人が、籠に溢れるほどのパンをイエスから戴いたのです。イエスに従い、イエスに仕える者達を、神様は決してお忘れにならない、溢れるばかりの恵みを取り分けていて下さるのです。

さて、満腹した人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14)と言いました。
昔、イスラエル人が荒野を旅していた時、天からのマナで彼らを養ったモーセのような預言者像を、イエスに対して描いたのです。そして熱狂した群衆は、イエスを王にしようとしたのです。
イエスは群衆から離れて、「ひとりでまた山に退かれ」(15)ました。

群衆の思いとイエスの思いは、いつもズレています。そして、これもまた、イエスが神から遣わされた真の救い主である証拠でもあります。人間が自分たちに都合よく考え、仕立て上げた救い主なら、ズレは生じないのです。

群衆の思いが、神の思いから最もかけ離れる時、それが、このパンの奇跡の一年後にやって来ます。群衆が、イエスを十字架につけろ、と叫ぶのです。
一点の罪もない聖い神の御子イエスが、時のユダヤの指導者と群衆により、罪人として、十字架に掛けられて処罰されるのです。
しかし、これこそが、私達人間に対する神の救いの御計画だったのです。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)とイエスは言われました。
イエスがパンを裂き、それを食べて群衆が満腹したように、イエスは十字架で、御自身のお身体を裂かれ、私達に永遠の命を与えてくださったのです。
本来なら私達が、自分の罪の故に、神から受けるはずだった裁きを、イエスが代わりに、十字架で引き受けて下さったのです。
イエスが十字架でお身体を裂かれることによって、私達の罪は赦され、神と和解して、永遠に神と共に歩むことができる、永遠の命を戴くことができるのです。

ヨハネはその手紙の中で、このように書いています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9-10)
イエスが来られた目的は、このイエスを私達が信じて、神の赦しと永遠の命を受けるため、イエスは、あなたの救い主なのです。

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