2024年09月01日「神の愛の表れ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

イエスの死
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
墓に葬られる
57夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。 58この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。 59ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 60岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章45節~56節

原稿のアイコンメッセージ

「神の愛の表れ」
詩編22:1-2
マタイ27:45-56
I.霊的な暗黒-神に見捨てられるイエス
 基本的に四つの福音書記者は、夫々、イエスの十字架上での肉体的な苦痛について記すことを、控えています。それは、先週も申し上げました通り、そこにあまり、焦点が行くと、イエスの十字架の死の霊的な意味、即ち、人の心の醜さ、人々の罪の赦しと、永遠の命についてのポイントが薄れるからでした。
 その中では、今日の御言葉は異質です。十字架の七言の中では珍しく、イエスの苦痛をそのまま、ありのまま記しています。さて、イエスは、十字架上で全部で七つの言葉を語られました。

 第一に、「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。苦しみの中から捧げられた、何と言う愛の祈り、人の全ての罪を全てを覆い尽くす祈りです。
第二が、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。イエスと共に十字架につけられた、強盗の願いに答えて語られた言葉です。何と確信に満ちた、全ての罪人に与えられた救いの約束です。
そして第三番目「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です、見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26)。母マリアを愛弟子ヨハネに託された愛の配慮の言葉です。
これは子としての、母親を慮った愛の言葉です。

第四が、教の御言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マタイ27:46)。十字架の御苦しみの中での、私達の罪の身代わりの裁きの叫びです。

第五が、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)という御言葉です。第六が、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)、第七が、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。です。

 マタイは、これだけ多様なイエスの十字架の言葉の中から、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マタイ27:46)。
 
これを選んだわけですから、そこには、マタイの一つの視点があるのです。

マタイが強調したかった第一の点は、イエスが十字架上で経験された、霊的な暗黒の深さです。

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(ver45-46)。

 マルコによる福音書によれば、イエスが十字架につけられたのは、朝の九時です(マルコ15:25)。十字架刑が始まって、三時間余り経過した昼の12時から、三時間余り、全地が暗くなりました。この暗闇は、正に神の直接介入です。
 
神は、善い人の上にも、罪人の上にも、この地上が或る限り、平等に、陽を昇らせて、知を明るく照らされます。これを神の一般恩恵と呼びます。

そして、これは、天地創造の初めから、変わることがありません。所が、昼間であるにも拘らず、全地が真っ暗になったのです。

あの出エジプトの折には、神の御介入によって、エジプト人がいるところは何処でも真っ暗になりました。しかし、それでもイスラエル人のいるところには、遍く光があったのです(出エ10:21-23)。
これは、イスラエルを行かせまいとする、エジプトに対する、神の裁きでした。しかし、今回ばかりは、イスラエル人のいるところも含めて、全地が真っ暗になったのです。
即ち、それほどの裁きを、霊的な暗黒をイエスは、十字架で体験されたのです。

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(27:46)。
 
これは、詩篇22編にある御言葉です。しかし、ヘブル語でこの言葉は、「エリー、エリー、ラーマ―、アザブタニー」です。しかし、イエスは当時の日常会話で用いられておりました、アラム語で叫んでおられます。しかし、アラム語では、「エリ、エリ、メトゥル、マ、サバクタニ」となります。
 
ですから、厳密に言えば、イエスは、ヘブル語でもなく、アラム語でもない、これは正に、ご自分の言葉で叫んでおられるのです。イエスは、ご自分の実感として、私は、神から見捨てられた。そのことを、感じておられるのです。
 実際にイエスは、今まで天の父なる神さまのことを、アッバと、幼児語のような非常に近しい言葉で、語りかけておられるのですが、ここは、非常に他人行儀に、「わが神~」と語っておられるのです。それほどまでに、イエスは、神に見捨てられてしまったのです。イエスに対する優しい天のお父さまではなくて、怒りの審判者として、神がイエスの前に立ちはだかれたのです。

しかし、イエスが神に見捨てられた。イエスが神に見捨てられたからこそ、このことによって、誰が神に受け入れられたのですか。
それは、あなたです。イエスが見捨てられてしまったがゆえに。神に。神はあなたを受け入れて下さったのです。あなたを愛して下さったのです。
あなたが過去どんな歩みをしていたか。何をしていたか。そんなことは問題ではない。
神は今のあなたを受け入れて下さるのです。今のあなたを愛して下さるのです。
だから過去の涙で、未来まで染めてはいけない。神は、そのままのあなたを受け入れて下さるお方のです。
イエスを完全に否定するほどまでに、神はあなたを愛してくださっているのです。神はあなたを愛しておられます。
II.主権的な死
さて、イエスのこの叫びを聞いたときに、在る人々は、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。」(ver47-49)。
 
イエスをエリヤが、助けに来るまで、見てみようということで、イエスに、酸いぶどう酒を飲ませることによって、生き延びさせようとしたのです(マルコ15:36)。イエスを罵り続けていた人々も、三時間も続く、只ならぬ、暗闇、イエスの、「あなたは今日楽園にいる」という強盗に語った御言葉。これらを聞いて、もしかすると、本当にこの人は、メシアなのかもしれない。そして、メシアの先駆者、先駆けと言われたエリヤが、最後の一瞬で本当に現れて、イエスを救って、メシア王国が本当に来るのかもしれない。人々は、一瞬そのような気になりかけていたのです。

 ところが、このような人々が期待いたしました、大どんでん返しとは裏腹に、「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(ver50)。のでした。


これは、「霊を去らせた」という御言葉です。もしかすると、本当に、エリヤが助けに来るかもしれない。人々の淡い期待をイエスは、ものの見事に裏切られて、霊を去らせてしまわれたのです。

 詩篇22編は、勝利の歌で終わっていますが、イエスは、主体的に、勝利者として、ご自分の方から、霊を去らせてしまわれたのです。

 角度こそ違うのですが、四つの福音書は夫々に、イエスの死は、自ら主権的に、霊を一時的に、神さまにお委ねした出来事、周囲の人々が、大どんでん返し的に、エリヤの助けを期待していたにも拘らず、「霊を去らせられた」主権的な出来事だったのです。

結論から言えば、イエスは、十字架で殺されたのではありません。
死んだのです。死なされたのではなくて、死んだのです。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Iコリント15:54-55)。パウロは語りましたが、イエスだけが、勝利者のような態度で、主権的に死を死んでいかれました。イエスこそ、死を克服するお方、死に対する勝利者であったのです。
III.しるし
最後に、マタイ独特の記事は、イエスの死後の数々の、しるしです。第一のしるしは、神殿の幕が、上から下まで、真二つに裂けてしまったことです。「神殿の幕」は、祭司達が、パンを備え、香をたく聖所と、その奥にあります、大祭司ですらも、年に一度しか、全国民の贖いをするために入ることができなかった、至聖所とを隔てる垂れ幕のことです(出エ26:31-35)。

神は昔、この垂れ幕の中に置かれた契約の箱、神がシナイの山でモーセを通して与えられた、十戒の板、証の板を通して、イスラエルと語られると言われていたのです。

イスラエルがそのままでは神の御そばに近づけない、この垂れ幕は、大祭司による贖罪、贖いの必要性を見える形で、教えていました。しかも上から下に裂けたのですから、神の御力によって、裂けてしまったのです。イエスが十字架で贖いの死を遂げたときに、隔ての垂れ幕は裂けて、神と人とをさえぎる隔てはなくなりました。

 それだけでなく、垂れ幕の奥にぽっかりと姿を見せた至聖所には、嘗て、モーセの幕屋やソロモンの神殿にあった、証の板と契約の箱は、ありませんでした。

エルサレム神殿で、繰り返されてきた、旧約聖書の儀式を嘲笑うかのように、生贄の礼拝と祭司の儀式を示すかのように虚ろな部屋を露呈していました。

 ですから、聖書は、イエスの死こそ、旧約聖書の生贄の儀式の終焉であり、贖罪の成就であることを、人々は、主イエス・キリストの贖いの死を通して、憚ることなく、神に近づけるようになったことを教えているのです。 

 次に地震が起こり、岩が裂けました。岩が裂けるとは、エルサレム神殿の土台が裂けるということです。地震によって、岩が裂けるというのは、神の裁きを表しているのです。イスラエルの人々は、神の選びの民だから救われるのではありません。人々は、主イエス・キリストの贖いの死を通して、憚ることなく、神に近づけるようになったことでわかるように、主イエス・キリストを信じるときに救われるのです。イエスが十字架で死の力に打ち勝ち、罪の刑罰の下から、聖徒達。即ち、イエスを信じる者達を救い出して下さいました。それが、象徴的に、ver52-54に表されているのです。

最後にイエスの十字架について、三つの側面から考えて終わりましょう。

それは第一に、十字架は罪に対する神の刑罰です。アダムとエバの堕落以来人間は、罪の刑罰を受けなければなりませんでした。それは肉体的な死ばかりではなく、神との永遠の分断。神に見捨てられるという霊的な死です。
今日の御言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マタイ27:46)。これに良く表れています。

しかし、第二に、十字架は神の愛を表しているのです。イエスの十字架の死は、罪のない者が、罪ある者の身代わりとなるという、犠牲的な死です。

しかもそれは、本来私達が、神に見捨てられなければならないにも拘らず、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マタイ27:46)。イエスが見捨てられることによって、私達がもう神に見捨てられることはない。

私達一人一人が神に受け入れられていくという、神の愛の意表れでもあるのです。

そして第三番目。今日最後に、イエスの十字架は、神の救いの約束が成就したことを表しているのです。
アダムとエバが堕落をしたときに、神は彼らに刑罰をお与えになられました。
しかし、それと同時に、人間を愛して、救いの約束をも与えられたのです。それ以来、旧約聖書には、この約束が成就することが示されてきたのです。
その中心こそが、あの十字架の僕の歌イザヤ書53章にあるのです。
あの主の苦難の僕のお姿です。イエスはまさに十字上で、屠り場に引かれていく小羊のように、黙々と神の裁きをお受けになられたのです。
イエスは、十字架で、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って、息を引き取られました。これは、「完了した」という言葉ですが、旧約聖書の時代から約束されていた神の救いが、「成し遂げられた」。「完了した」のです。

どうか、このイエスの十字架の恵みを信じて、罪許された、永遠の命の恵みの中を、神の愛の表れである、イエスの十字架を信じて歩んでいくものでありたいと思います。
1947年(昭和22)9月1日、長崎市と時津町の町境にある坂を、いつものように長崎自動車の木炭自動車がのぼっていた。
 とつぜん自動車がストップすると、じりじりと後退しはじめた。
 ブレーキを踏んでもとまらない。後輪のシャフトがはずれてしまったのだ。
 車掌の鬼塚道男さんはとびおりると、道に転がっている石をひろって車輪の下に入れたが、そんなことでは止まらなかった。
 あと一メートルで自動車は十メートルの崖から落ちてしまう。
 その瞬間、鬼塚さんが後退する車輪の前に身を横たえた。
 バスは鬼塚さんの上に乗ってようやく止まった。
 こうして彼は二十一歳の短い生涯を、三十余人の乗客の命を救うためにささげたのであった。

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