2026年05月24日「夢と幻」

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夢と幻

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
使徒言行録 2章14節~36節

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ペトロの説教
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17『神は言われる。
終わりの時に、
わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
18わたしの僕やはしためにも、
そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
19上では、天に不思議な業を、
下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
20主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
主がわたしの右におられるので、
わたしは決して動揺しない。
26だから、わたしの心は楽しみ、
舌は喜びたたえる。
体も希望のうちに生きるであろう。
27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
あなたの聖なる者を
朽ち果てるままにしておかれない。
28あなたは、命に至る道をわたしに示し、
御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、
その体は朽ち果てることがない』
と語りました。 32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
35わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」』
36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章14節~36節

原稿のアイコンメッセージ

ヨエル書3:1-5 使徒14:-36

「夢と幻」                    


I.幻のある人生
先日、パソコンを整理していたら、皆さんが私を招聘して下さった頃の会員総会の報告が載った週報や、2018年9月1日(土)が就職式で、2日(日)の週報は、川瀬先生が書いて下さいましたので、私が初めて書いた、2018年9月9日の週報が出てきました。

懐かしく見ておりましたが、あの頃は、ビジョンに燃えていたなと改めて思わされました。そして、もう一度心新たにさせられました。皆さんどうでしょうか。皆さんには、夢がありますか。幻を持っておられるでしょうか。

今日はペンテコステですが、聖書の時代、今日この日から世界宣教が始まりました。言葉が分かる人々は、ビックリしました。
元々エルサレムには、世界の各国から人々が集まって来ていました。
今の東京のような街です。そのエルサレムで、どうしてユダヤ人が、自分達の国の言葉(異邦人の言葉)で、福音を語り出したのか、外国語の分かる人々は、一体何が起こったのか、驚いたのです。

この事実を受け入れる人もいましたが、馬鹿にする人もいました。そして、その言葉が、分からない人々は、「新しいぶどう酒」(ver13)に酔っているのだ、と嘲りました。
こういう人々を相手取って、ペトロが代表をして答えたのが、今日のver14-36までの長い説教、初代キリスト教会最初の説教です。

まずペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」(ver14~15)。
人々が突然に他国の言葉で語りだしたその事実を、酒に酔っているのではない。と明確に否定しました。

ユダヤ人は、一日三回お祈りをしますが、朝の九時は、最初の祈りの時間帯です。第体お酒飲んだら祈る事はできないでしょう。では、本当の原因は何だったのでしょうか。

ペトロは言いました。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」(ver16)。このペンテコステの出来事は、旧約聖書からずっと預言されてきた預言者ヨエルを通して言われた事の成就であると、ペトロは言っているのです。

「『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(ver17-18)。

ここから二つのことが分かります。第一に、終わりの時には、全ての人に聖霊は注がれるということです。旧約聖書の時代には、エリヤやエリシャと言った、特別な人だけが聖霊に満たされたのです。

しかし、この終わりの時代には、老若男女の区別なく、国籍の如何によらず、僕やはしためを含めて、「全ての人に」聖霊が注がれるのです。その注ぎを受けた者は、皆、夢を見幻を見て、預言をするようになる、神の御言葉を語るようになるのです。しかし、第二に、全ての人に聖霊が注がれると言っても、それは、「私の僕、はしため」(ver18)に限るのです。「主の名を呼び求める者は皆、救
われる。」(ver21)。と聖書は言っていますが、結局終わりの日に、主の霊が注がれるのは、「私の僕、はしため」です。これは、謙遜に神に従おうとする人々です。そういう人々に、神の霊は降られます。主の名を呼ぶ者、私達クリスチャンに、主の霊は注がれるのです。

「すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(ver17)。「息子と娘は預言をする」(ver17)。これは、神の御言葉が語られると言うことです。

聖霊のお働きがあるところ何よりも、神の御言葉が語られます。そして、聖霊が注がれる時に、「若者は幻を見、老人は夢を見る」(ver17)。

聖書は、老人が夢を見ると語ります。人生年をとって、もう終わりだと思ってしまう事がある。年を取ったら、後はもう余生を過ごすだけ、年老いてから人生を前向きに捉えることは難しい事ですが、聖書は、「白髪は栄光の冠であり」、「夕暮れ時に光がある」と語り、ヨシュアに対して、年老いて尚取るべき地が多いと語るのです。
あの旧約聖書の指導者モーセが、指導者として立ったのは、何と80歳でした。信仰の父アブラハムに子供が与えられたのも99歳の時でした。聖書には、年老いてから神に用いられる、そういう事例に満ちています。

「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである」(箴言29:18)。幻のない民は、堕落すると聖書は言っています。これは、ほしいままに振舞う。という言葉です。私たちは、夢を持っているでしょうか。私たちは幻を持っているでしょうか。河合隼雄さんという方が、その著書「日本人とアイデンティティー」の中で、断夢症状という言葉を使っておられます。夢が断たれる症状です。人間は、一晩に何回も夢を見るですが、脳波を取って実験をして、睡眠中に夢を見ている状況に、身体をゆすって、起こして、夢を見せないようにする。これを何日も続けるならば、混乱が起こり、幻覚が出てくるそうです。

ですから、夢を見るということは実に健康な事なのです。そして、河合隼雄氏は、現代の者が直ぐに切れるのは、将来に希望が持てずに、夢を見ることを抑えられているからだと言っておられました。

夢や幻は決して潰してはいけません。夢や幻のない人生は、滅びてしまうのです。若者は幻を見、老人は夢を見る、正しいビジョンを持って人生を歩む者でありたいと思うのです。


II.キリストの十字架の死と昇天


さて、次に、ver22以下です。ペトロは、ここから、壮大なイエスのご生涯について語ります。イエスは神から遣わされた救い主で、様々な奇跡的な御業を行いました。こうして御自身神であることを証されました(ver22)。

ところがイエスは、「律法を知らない者たちの手を借りて」(ver23)、
ローマ人によって、十字架で殺されてしまいました。しかし、実は、この事すらも、「神がお定めになった計画である」(ver23)と彼は語ります。

当時イエスを十字架につけた人々は、イエスを滅ぼしたと喜んだと思います。人間は、この世界の、イニシアチブを正に自分が全て取っていると思っています。
歴史のイニシアチブは大国のリーダーが握っていると思っています。しかし、そうした人間の思い上がり、傲慢を越えたところに神はおられて、御自分の御手の中で、摂理的に、この歴史を導いておられる、永遠の計画と目的を導いておられます。
そして、「次に神はイエスを死から解放して、甦らせたのです(ver24)。そして、ペトロは、そのイエスの復活の出来事を、ver25-28に渡って、語っていくのです。
更には、旧約聖書を良く知るユダヤ人達に対して、この復活の事実は既に旧約聖書で預言されていたことの成就であると言っているのです。
旧約聖書の時代からイエスは、苦しみを受けて、甦る者とされている、それが正にイエスである。そのことをペトロは、旧約聖書詩編16:8-11を引用しながら語ってまいります。

更にペトロは、イエスの復活を証するために、ここで、ユダヤ人が尊敬するダビデ王について語ります。ダビデはソロモンと並ぶイスラエルの偉大な王です。そのダビデを引き合いに出して、ペトロが語るのが、ver29-31です。

イエスは甦られて、その墓は空です。しかし、「ダビデの墓は私たちのところにあるのです」(ver29)。とまず、「ダビデ」と「イエス」の墓の違いを示します。

そのダビデは神によって予め、キリストの復活を知らされて、「『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」(ver31)。そしてその言葉通り、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(ver32)。ペトロはこのように断言致します。

更にペトロはイエスとダビデの対比を続けながら、復活をしたイエスの昇天について、次に言及します。「ダビデは天に昇りませんでした」(ver34)、しかし、甦りのイエスは、「神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(ver33)。と、「ダビデ」と「イエス」の違いを明確に明らかにしています。聖霊は、イエスの十字架と復活と昇天の結果として、この地上に来られたのです。
そして、これらの事を踏まえて、ペトロは、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(ver36)。と結論づけているのです。

イエスは、50日前に復活をなさいました。あってはならない事が起こった訳ですから、ユダヤ当局者達は、空になった墓を説明するために、死体が盗まれたなどの嘘の噂を流しました。

しかし、あのエルサレムの二階座敷で祈っていた、弟子達の上に聖霊がお降りになり、それが天に帰られたイエスからのプレゼントである事が分かったときに、見事に人々にイエスの復活が論証されたのです。

てっきり偽メシア、偽の救い主だと思っていた、イエスが、今正にここに真の救い主としてお立ちになられたということです。このように聖霊の降臨は、イエスの十字架と復活と昇天を基礎として私達に与えられるものなのです。

聖霊は、人間の思惑を超えて働かれるお方です。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。

風とは聖霊のことです。その、聖霊は己が好む所を吹かれるお方、御自身の好む所で働かれるお方です。私達の熱心さによるのではなくて、

一方的な恵みによって与えられるものなのです。ですから、大切な事は、聖霊に働いて頂き易い、教会や人になるということです。聖霊のお働きをお邪魔さえしなければ、教会は成長する言われた先生もおられます。

ペンテコステは、イエスの復活と昇天と言う歴史的な事実を背景にこの地上に降られました。聖霊は、人間の思惑に左右されるようなお方ではありません。御主権を持って働かれるお方です。聖霊に働いて頂き易い教会、聖霊に働いて頂きやすい人になりたいと思います。


III.開かれたペトロの心

ペトロは最後に、聖霊によって、二つのことに心が開かれました。
第一に彼は聖霊によって、聖書に対して心開かれました。旧約聖書のヨエル書の引用から始まって、彼の論証は全て聖書によるものでした。それは単に聖書の知識が豊富であった、それ以上の事があるのです。

聖霊体験とは正に、聖書に対して目が開かれる事に他なりません。彼は、聖書が何を私達に語っているか、その事に目が開かれ、御言葉を自由に駆使して、聖霊降臨の意義とイエスがキリストであることを立証できるようになったのです。

第二に彼は、聖霊によって、イエスに目が開かれました。他の弟子達も含めてペトロも約三年の間、イエスと生活を共にしました。しかし、真の意味でイエスがどのようなお方か分かりませんでした。
頓珍漢な質問をしてはイエスを悲しませました。しかし、ペンテコステ以降に見られる弟子達の劇的な変化は一体どういうことでしょうか。
何が彼等をしてあのように大胆にイエスを述べ伝える弟子達へと変えさせたのでしょうか。それは言うまでもなく、聖霊が臨まれたからです。

イエスと一緒に三年間寝起きしていた時は、まだ、私にとってイエスはどのようなお方か、私にとってイエスはどなたなのか、ペトロはイエスとの個人的な関係がわからなかったのです。

しかし、復活のイエスに出会い、聖霊に臨まれた時に、彼の人生は新しく変えられました。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Iコリント12:3)。と聖書は言っていますが、正に聖霊に臨んで頂いたときに、イエスこそ私の救い主である事が分かったのです。

聖霊こそが私達に鮮やかにイエスを分からせて下さるのです。聖霊に臨まれた時に彼は自分が罪人である事がわかった、あーこの罪のためにイエスが十字架に掛かって、三日目にお甦りになり、天に上られていった事が分かったのです。

だから、彼は聖霊によって、「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(ver36)。

イエスの十字架が自分の為であった、イエスが私の救い主としてハッキリと分かったのです。
そして、第三番目、『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(ver17-18)。
聖霊に私満たされるときに若者は幻を見、老人は夢をみる、そして、しもべ、はしためは、預言をする。神の御言を宣べ伝える人生を送ることができるのです。願わくは、聖霊に満たされて、幻を見る、夢を見る人生、神の御言を力強く述べ伝える、その様な人生を送りたいと思うのです。

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